ラベル メンタル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル メンタル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015/03/17

メンタル#12…高校生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
メンタル#5…小学生〜中学生時のこと
メンタル#6…中学生時のこと
メンタル#7…中学生時のこと
メンタル#8…中学生時のこと

の、続きです。

私を教育するためにお金を工面したりしてくれる親ではありませんでした。そもそも子供に情操教育が必要だと考えたこともない親ですし、勉強なんか自分でやれと放置する人でしたので(で、できないと怒られ聞いても怒られ殴られる)教育にお金を使うアタマがなかったんでしょうね。
なのに、音楽やスポーツで頭角を現している身近な人々や有名人と私を比較しては
「それに比べてうちの子はなんにもできない。情けないやら恥ずかしいやら。」
とヌカすので、とうとう私はブチ切れて

「習いたいって言っても尽くやらせてくれないのはあなたでしょう、何もさせないでいて比較するってなしでしょ?そんなこと言うなら私がやりたいと思ったことに興味を持つなりさせるなりしてよ、家に閉じ込めて何もさせてくれないのに何言ってんの!」

と、思わず言ったら予想通り殴りかかってきたので反撃して腕を捻りあげてやりました。
反対側の腕を使って私の側頭部めがけて拳が飛んできたので、当たる前に掴んで突き飛ばしました。
初めて堂々と反撃しました。
これで更に殴り続けてきたらもう警察に保護してもらおうという覚悟をして、部屋に戻って、出ていける用意をしました。
…まあとにかく当時本当に喘息が酷くて、高校の時にもそのまま気管支炎になって一週間くらい入院して、吸入器がないと不安で外出できないくらいで、階段を昇るだけでも大変で、中学2年くらいからずっと体育のマラソンはドクターストップだったくらいなので、家出はそれこそ命取りになるので我慢してきましたが、もう限界でした。
出ていけるように荷物をまとめていても、なかなか部屋に突入してきません。
その日はもうそのまま放っといて部屋に閉じこもり、その後どうしたのかよく覚えていないのですが、母は何事もなかったようにケロッとしてました。
その後、また殴ろうとしてきたらすぐに私が反撃の姿勢をとるようにしていたら、殴ろうとすることが減っていきました。
…なんだ、わたし、積木くずしみたいに、さっさと家で暴れる子になってたほうが早かったのかなあ。とつくづく思ったのでした…。


家が貧乏ではないのは分かってました。
医学部とかになっちゃうとわからないけど、私がターゲットを絞り始めた分野での学費が払えない経済状態ではないくらいは、日々の無駄な浪費生活を見ていればわかります。
今までの恨みを晴らすような気持ちを抱いて、その後の進路決定を強行しはじめました。

で、うちの高校は進学校だったのもあり、そもそもそういう考えがなかったので、友人と進路について話しながら「おお!」と思ったのが、専門学校という選択肢でした。
そういう学校もあるのか!
当時はインターネットなんて便利なものはないので、進学情報誌みたいなのをいろいろ集めて、なんだ、別に大学じゃなくてもいいじゃん。ほっほー。いっぱいあるねー。
そう思い始めている時に珍しく家に父がいて進路のことを聞かれたので、専門学校を考えていることを話すと「どこでもいいから大学に行ってほしい。」と言われました。
大学だったら私は美大に行きたいと何度も言ってた。けど美大用予備校に行かせてもらえないので、美術の先生も相談に乗ってくれた。今から独学で追いつくのは自分では無理だと思う。絵を描かずに行ける興味のある大学はA大とかB大とかC大とかだ。そこ以外の大学の勉強には興味がない。だから専門学校を選択肢に入れている。
と言うと「どこでも好きなところでいいから大学に…」と父は言いました。
言ったな!言ったな!聞いたぞ!!

美大に行きたいのに美大用予備校に行かせてもらえないから諦めた、という話は当時父にもしたはずなのですが、それから10年くらい経って私のアタマが完全におかしくなったときに、焦って右往左往する父に改めて怒りを込めて話したら、初耳だ、みたいな顔をして「えっ、そんな…」と言われました。
何なんでしょうかこの人たちは。

この人たちは、私が文化祭で演劇部で主役の一人(主役三人って感じの作品だったので)をやる、9時開演だ。と言ってるのに13時くらいにノコノコ学校に来てウロウロしてて。
「何やってんの。」
「あんたの演劇みにきた。」
「とっくに終わったし。」
「えっ?次何時から?」
「もうやんないよ。映画館じゃないんだから。」
「何時からだったの?」
「9時って言ったじゃん。」
「9時だけなの?」
「9時からって言ったら9時からだけです。」
うんざりしてもうほっときました。
この人たちはその後の私の実習発表公演なども観に来てません。
このときの公演では、台本が分かりやすかったおかげもあるのですが大好評で、終演後に、観てくれてた友人達が泣きながら抱きついてきて褒めてくれたものでした。

もうひとつ私が父を軽蔑するようになったきっかけ。
私は当時、同級生の影響もあってライトノベルの一部分野にハマっていました。
風の大陸、アルスラーン戦記、なんだ、かんだ、吸血鬼ハンターD。
ファンタジーとかですね。恋愛ものとかには全く興味無しでした。
アルスラーンとDで天野喜孝さんの絵に見とれ、え〜この人ガッチャマンとかタイムボカンとかハッチとかの人なの!え!え!タツノコプロで絵描いてた人がこんな絵も描くの!えっ、えええ!
と、図書室から借りたりお小遣いで買ったりして表紙や挿絵を模写したり、ベッドのアタマのとこに積み上げて、寝る前に眺めてうっとりしてました。
ビジュアルの業界に行きたいと思ったのは、これとか、あと萩尾望都さんや竹宮惠子さんの作品に夢中になり、こういうのを作る人の中に入りたい!と思ったからでした。

ある時何かで私は父に怒られて。なんでだったかな。なんで怒られてるんだろうと思いながら放っといたら

「そんな本ばかり読んでいてなんちゅ〜子じゃ。その作者がどんな本書いてるのかお父さん知ってるんだぞ!」

…何言ってるんだろう??

「恥ずかしげもなくそんなに積み上げて。もっとまともなもん読め!」

……ああ。
菊地秀行か。
菊地秀行さんがエロエロ小説を沢山書いてることくらい本屋さんでDとか探してたらわかります。
でもこれは朝日ソノラマじゃ。
ジュブナイルでラノベでターゲットはモロ私世代じゃ。
あんたが読んでるエロ小説以外にも書くんだよ菊地さんは。
あんた今の発言で自分の無知と、自分がエロ小説ばっかり読んでるって恥を一度に晒したんだよ?どんだけ恥ずかしいか自覚する必要があるでしょ、これ全部読んでから今私に何言ったのか考えて、それでも同じセリフを言えるなら言ってみなさい、私は既にあんたを軽蔑したけどね!それはもう拭えないよ!
何黙ってんのよ、言い返してみれば!!

と、全部言いました。
父はニヤ付きながらどこかにいきました。

きもちわるい。
あのおっさん、すっげーきもちわるい。
世間的にはエリートなんだろうけど、私はひたすら軽蔑する。
娘の胸を揉みたがり、それを拒むと手とかあちこち握ってくるあのおっさん、エロ小説ばっかり読んでて菊地さんがどういう作家かも知らずに偉そうに恥晒してる。

無理。

無理。

続きます。

長いって!?
すみません。気が済むまで続けます。


にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/03/10

メンタル#11…高校生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
メンタル#5…小学生〜中学生時のこと
メンタル#6…中学生時のこと
メンタル#7…中学生時のこと
メンタル#8…中学生時のこと

の、続きです。

進路のことは本当に行き詰まりました。
最初に消去法で。
教師にはならない。いままで尊敬できる教師に出会ったことがないから。
幼稚園や保育園の先生とかになりたい。
でもピアノが弾けない。
習って練習すればいいよ、と言われるのだが予備知識があまりにもなさすぎ。
習って練習すれば、という人は幼少期に若干でも何かしらを習ったことがある人なんですね。そう簡単に習得できる気はしないし、ピアノのコンプレックスが引っかかってほかのことが伸びなくなりそうだから諦めました。
(これは後に同じ理由で妹も諦めていました…)
好奇心としては、私はSF作品が好きなので、天文台とか、航空宇宙学とかにと〜っても興味がありました。
地学はともかく…数学が…物理が…
頑張るにも、どうにも、頑張ろうと思って教科書や参考書を広げてもアタマが全く動かなくなる。
地学は教科書を読めばサッサと理解できて、公式もパッパと覚えて、地震の伝わる速度とか惑星の距離の計算とか一発正解すぐできるのに(もうできません)、数学や物理になると何故こんなにも分からないんだろか。何故なんだろか。
生物も割と理解できるんだけど…
化学は父が専門なんだけど、専門家の人は、分からない人が何故分からないのかが分からないので、教えてもらおうと思って聞いても「なんで分からないんだこのバカ何を勉強してるんだ!」と怒られるのでもういやだ。


とりあえず数学のないクラスに入ったし。
でも、文学部行って何するかなあ…
経済とかも全然興味ないんだよなあ…就職に有利って言ったって、そういう業界に全く興味がないのに、勤まらないだろうし、そもそも興味ないとこ行っても続かないだろうしなあ…商業とか政治とかにも全く興味がないんだよなあ…
外国語は、興味ある人と分かる人に任せる。私はいいです。
音楽はもちろん無理。
声量がちょっとばかしあったので、声楽科を目指してるクラスメイトに「歌はクラシックだけじゃないんだよ!こんな学部もあるんだよ!こういう人が出身なんだよ!」勧められましたが、いやいやいや…ちょっと現実的でなさすぎる…リトミックって何?って状態から追いつく時間が全くないっす…

だいぶ前から私は絵を描く人になりたいと思っていました。アニメーションにも興味があって。
で、美大に行きたいと思い、美大受験用の予備校に行きたくて母に相談したのですが

「お母さんだって習いたかったのにやらせてもらえなかったんだから、自分で稼げるようになってから習いなさい。」

と、意味の分からない言い方で一蹴されました。

「美大に行きたいの。」
「勝手ばっかり言って通用すると思うな!」

もう、相談するだけ自分がどんどん惨めになってゆく。
進路のことなのに。

私は高校の3年間、芸術科目は美術を専攻していました。
美術の先生がいろいろなことをさせてくれる方だったので、デッサンは一年の初期の頃だけで、あとはコラージュとか日本画とか、油絵でキュビズムとか、陶芸とか、七宝焼とか、鎌倉彫とか、自由手法でシュールレアリズムとかを楽しませていただきました。
日本画と鎌倉彫は次の学年へのお手本として美術室に展示してもらえました。
シュールレアリズムは最後の作品となったのですが、アタマのおかしい私があちこちからガラクタを集めてきて明らかにアタマのおかしい作品を作って呆れられました…

私が美大受験用の予備校に行かせてもらえない理由で美大受験を諦めようとしていることをクラスの友人に話したら、美術部で、美大受験組の先頭を走っていたような同級生が美術の先生にその話をしてくれたそうで。
放課後に美術の先生に呼び出されました。

「…って聞いたんだけど、本当?」
「…はい…。」
「お前はきっとそういう道を選ぶと思ってた。」
「……そうですか?」
ま、あのアタマのイカレタ作品作った時点で私が家庭でどんな目に遭ってるのかは美術の先生にはなんとなく想像がついてたと思います。。。

美術の先生から言われたことは、《落ちる人は何年習って何年浪人しても落ちるし、受かる人は習わなくても受かるもんだ》ということでした。
習わせてもらえなくても、放課後に美術室に通って練習すればいけるかもしれないぞ。
という内容でした。
ほんとうに、ほんとうにありがたいことだなあと思って、確かあの時泣いてしまったと思います。
でも、ずっとプロに習いながら絵の練習を何年もし続けている人と、私が、もし万が一受験で同時に合格してしまっても、そこから先追いつけるとはとても思えなかったのです。
うちでは浪人は絶対に許されないし…穀潰しって殴り殺されそう…

その頃美大に行ってそれで何するのかとか具体的な考えはまだありませんでした。
ただとにかく、ビジュアルで何かを見せることについて学んでいきたい、それが私にできること。なのか。したいこと。なのか。わからないんだけども。
目標をそっちに定めてみよう。
とりあえずそれだけ決めました。

続きます。


にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ 

2015/02/25

メンタル#10…高校生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
メンタル#5…小学生〜中学生時のこと
メンタル#6…中学生時のこと
メンタル#7…中学生時のこと
メンタル#8…中学生時のこと

の、続きです。

高校のときの精神状態は、本当に、無茶苦茶でした。

同級生達のほとんどは、はつらつとした健康的な家庭で、愛されて、大切にされて、情操教育をたっぷり受けて、すこやかに賢く美しく育ってきた子達がたくさんいました。
文武両道、部活動でも良い成績をおさめ、成績優秀。

私ときたら…

家に閉じ込められ、殴られ、罵詈雑言を浴び、養ってやってるんだから家賃を払えと言われ、じゃあバイトすると言うと「あんたみたいな恥さらしな子供を他所様に見せられない!」と罵倒され、お友達との外食外泊禁止、いきなり「死ね!」と叫んで部屋の中に突進してきて殴られ、「出ていけ!」と冬の寒空の夜中コートも着ないで家から押し出され(靴はなんとか蹴り出して確保)近くの公園の滑り台に座って、

「今日は隣の駅のお友達の家でお泊まり会やってるんだよな〜。呼ばれたけど親に許してもらえなかったの。家の恥を他所様の家に泊めさせるなんてできない。って。歩いてあそこまで行けるかなあ。途中の畑だらけのところ、どう歩けばあっち側に行けるのかなあ。お財布も何にも持ってないから電車に乗れないしなあ。どこかの交番に行って保護してもらおうかなあ。でも高校生だしなあ。カッコわるいなあ。それともこのまんま繁華街にいってブラブラして補導されちゃおっかなあ。でもその後きっと殴る蹴る死ねが激しくなるだけだなあ。」

と、本気で考えました。

1時間くらい寒さに耐えて、うんざりして家に戻ってみたら鍵が開いてました。
こっそり部屋に戻ってベッドに潜りました。

翌朝母が私の帰宅に気付いて

「どこに行ってたの?いくら待っても戻ってこないんだもの、心配したわよ。」

どの口が言うか。


本当に家にいるのが嫌で嫌で、勉強してても邪魔してくるし、母は専業主婦なんだから買い物くらい自分で行けばいいのにあれ買ってきて〜とかうるさいし、本気で拒否るとわーわー泣き、父も一緒になって私を責める。
ほんとに予習とかもっと根詰めてやらないと成績本気でやばいのに、なんでこの人たち邪魔するの〜!!ぎゃあああ。
と、もう、予習も復習も進まず理解も進まず、イライラは治まらず、無茶苦茶。
朝起きたら母が珍しく起きてきて、何か勝手に怒り狂ってる。
いつも通り勝手にお弁当詰めてたら、母の聖域の台所を私が使ってるのが気に食わないらしく更に怒り狂う。
「そんなに弁当作ってほしいならそれなりのことしろ!!」
と叫ばれるんだけど、全然意味が分からない。

とにかく台所から追い出されるので、詰めてる途中のお弁当箱を置いたまま、もう今日はコンビニで何か買おう。またお小遣いがなくなっちゃうなあ。
と支度を進めてると

「作ってやったぞ!文句あんのか!少しは感謝しろ!!」

と弁当箱を投げよこしてくる。

なんなの?
なんなのこのひと??

そんなお弁当食べたくないので、玄関に放置して学校に行きました。

帰宅すると
「お弁当持っていかなかったの?せっかく作ったのにぃ〜。」

なんだこいつ。

「私が自分で詰めてたのに横から入ってきて罵詈雑言叫びながら作った弁当なんか食べたくねえよ。」

と、言いました。
その後の母の反応は覚えていません。


のちに医師に言われたことですが、私が演劇とかそういった非現実の物語とかの中で生きたいと思ってそういう進路を選んだのは、耐え難い現実から逃避するため無意識のうちに逃げ込んだということかもしれない。そうです。
なるほどな〜。

演劇部は楽しかったです。
大会とかではブロック大会でさくっと敗退が毎回の結果でしたが、女子校というハンデもあり、顧問が指導するタイプの部活ではなく部員が自分たちで考えてあーでもないこーでもない。と、文化祭や新入生歓迎会などの校内発表会をメインに作っていました。
うちの高校には別にミュージカル部と英語劇部があったので、それらとは明確な違いが出るように注意していました。

私は全身刺だらけだったので、何かと口論になり、未だに友人達には「Namiと○○のバトルがすごかったよねえ〜。どっちも正論なんだけどさあ〜、どっちも譲らないのあれホント毎回今思えば面白いよねえ〜」と言われます。
お互い喧嘩してたつもりではないのですが…私の言葉が刺だらけだったのは認めます…

だって、刺でも生えさせなきゃ自分を守れなかったのですから。

続きます。



にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/02/22

メンタル#9…高校生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
メンタル#5…小学生〜中学生時のこと
メンタル#6…中学生時のこと
メンタル#7…中学生時のこと
メンタル#8…中学生時のこと

の、続きです。

高校に入ったら、私より優秀な人がドカドカたくさんいてびっくりしました。
まあ、合格の目安となる点数のギリギリだったので、あたりまえかぁ…。

それを自覚する以前に、授業の進み具合の容赦なさに唖然としました。
予習して、その日の授業内容を予め理解してから復習的に授業を受けるのが皆さん当たり前のようでした。
なんじゃこりゃ!!!

私は中学まで、ちょっとだけ勉強ができる方でしたが、ただなんとなく分かってただけでした。
勉強ができる子は、授業ではそれを悟らせず、どうにも授業が進まなくなった時に、塾とか英才教育を受けてる子が指されて答えるくらいでした。
それがまあ!
高校では、みんな前に出る出る!!
なんのこっちゃ?と思ってる間に授業は先に進む。
何の話してるのか分かんない。。。
分からないまま、授業が終わる…

成績も、実際、ほぼ最下位でした…ははは…
赤点とって追試受けても赤点でした。
特に理系。数学物理化学。
父が化学の専門家なので、この三つはできて当たり前とされていましたが、全く分からない。
何の話をしているのか全く分からない。
公式の意味が分からない。
だからなんなのか分からない。
何で分からないのと言われても何の話をしてるのか分からないので「何も分からない」しか言えないという…
わたし、ほんとに、よく卒業できたなあ…
地学と生物だけは教科書を読んだだけで理解できて、毎回ほぼ満点取れてたのですが、これは選択希望者が少なくて1年きりしか授業が受けられなかったのと、数学が分からないのでは理系に行きようがありませんでした。
なので、3年生になって進学希望先にあわせてクラスを選ぶときは、数学のない芸術系、短大・専門学校希望者向けのクラスを選びました。


完全に言訳ですが、その頃私は家で実のある勉強をする精神的余裕が皆無でした。

高校に入り、母から殴られるのは毎日になりました。
勉強のため、有意義なテレビ番組を録画して家で見ると必ず殴られました。
「教養としてこれは見ておくべきな番組なの!!」
なんて言葉は通じません。
母にとっては、濡れ場つきサスペンスドラマのほうが大事なのです。
というか、私が自由にテレビを使うのは許されないことだったのです。

学校の勉強は完全について行けなくなっても、せめて一般教養くらいついて行きたかったのですが、テレビという方法は、殴られるので無理になりました。
お友達と、興味深いとある番組の話題になり「録画してるの見たらまた話そうね!」と言っても、私は見ようとしたら殴られまして。

「…録画はしてあるんだけどね。見ようとすると殴られるの。」
「…え?えええ??なんで??」
「お母さんがテレビ見たいのに私が使ってると見れないから?みたい。」
「じゃあお母さんが見たい番組がない時に見ればいいんじゃないの??」
「そうしたんだけど、今お母さん見たい番組ないでしょ、だからビデオ見るねって言っても殴られるの。」
「…なんで…??」

わけがわかりませんでした。
妹や父は好きな時間に好きな番組を見ても絶対怒られないし、好きな時間にテレビゲームをしても全く怒られませんでしたが、私は何しても殴られました。


高校の部活に入るとき、いろいろ悩んで、演劇部に入りました。
ずっとのちに神経科に罹るようになり、主治医に言われたこと。

「現実の生活があまりにも辛かったから、無意識のうちに非現実の世界を生きられる、お芝居とかそういった世界に逃げて行ったのかもしれないね。自分を守るためにね。」

…そうなのかもしれません。

女子校の演劇部なので、男役もありまして。
何度かやらせてもらったのですが、華奢で背がちょっと低めで、声の高い私にはいくら女子校演劇部の世界でも限界があるなあと思いました。
そして、身体能力も低く、音楽の素養も、演劇の知識も全く無い自分を自覚し、私はいったい今まで何をして生きてきたんだろうかと呆然となりました。
そもそも、生のお芝居を見たことがなかったんです。
…いや、あるにはあったか。
中学生のとき学校の体育館で演劇鑑賞会をする劇団がまわってきて、何か見ました。
モンテ・クリスト伯だったと思います。うちの中学校には舞台面がないので仮設し、イントレ移動で情景を抽象描写したものでした。
…面白くなかったんだな〜これが。。
一応現在はそっち側の業界にいますが、客観的に回想してもあれは面白くなかったなあ〜。。。

中学生の時と同様、口が悪いので部活の仲間を何度も怒らせました。
家で毎日殴られながら死ね死ね言われてると、誰が何に傷つくかとかもう全く分からなくなってました。
みんなはそんな生温く、おうちで過ごせるのね。羨ましいわ。

それでも、うちの高校は、いじめとかはなかったです。たぶん。
こんな私でも、親しくしてくれる部活のお友達はいました。
ただ、日々理不尽に殴られてる私の悲壮感がオーラに出てたのか
「なんか背中に孤高な雰囲気がにじみ出てるよ!だいじょうぶ??」
と言われたことがあります。
全然大丈夫じゃなかったです。。


続きます。


にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/02/19

メンタル#8…中学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
メンタル#5…小学生〜中学生時のこと
メンタル#6…中学生時のこと
メンタル#7…中学生時のこと

の、続きです。

さて高校受験だぞ。
という時期になりましたが、うちは田舎から出てきた転勤族なので、このあたりの高校のどこがどうなのかが全然分かりません。
うちから一番近い高校が、結構レベルが高くて、「近いからいいんじゃない!?」なんて親に言われましたが、世間知らずの私が電車にも乗らない高校に行ったら世間知らずが一生治らんわ!
と、拒否しました。
それ以前にその学校に合格するための学力が足りませんでしたが…

当時の私の学力は、とにかく数学がネックになっていました。
数学が他の教科くらいの点数取れればだいぶ上がるのに…という…
どうすればいいんだろ〜。
と思ってたら、塾の先生が、県立の女子校を勧めてきました。
えっ。女子校??
考えたこともなかったのですが、友人たちと志望校の話になると、その学校に憧れてる子が沢山いたのです。
そうなのか〜。


私はその頃から徐々に、男性恐怖症というか、大人の男性を気持ち悪いと思うようになり始めていました。
たまにしか帰ってこない父が、なにかと私に触ってくるのが、吐き気がするほど嫌だったのです。
いくら止めてと言っても「可愛がってるのに!」って、可愛いからって胸を揉む父親がどこにいるんだ!と言っても聞く耳持たず。
父の手が伸びてきた時点で叩き払うことが増えてきました。
母に殴られ、父に触られ…
地獄でした。

それもあり、先生は男もいるでしょうけど、女子校だったら、なんか、男をめぐっての女同士のドロドロとかなさそうで、いいんじゃん?
と思うようになりました。

それを両親に告げると
「お父さんとお母さんは高校で出会ったから、できれば共学に行ってほしい。」
と、父に言われました。
なんだそりゃ。
未来の夫を見つけに高校に行くわけではないんですけど。
と、完全に無視しました。

で。で。
当然、
「Y君はどこの高校を目指すんだろう。」
と、気になりますが、誰も何も知りませんでした。
Yくんと幼稚園くらいの頃から仲良しのOくんでさえ、「何も教えてくれないの…」と、しょんぼりしていました。
(社交的なOくんと、たしか3年間同じクラスだったんだっけな。いつ頃からか仲良くなり、実はYくんに憧れてるんだ。という話をしたのです。『Yくんはすっごくいいヤツなんだよ!なんでもできるし、優しいし、昔はよく一緒に遊んだんだ!オレ応援するよ!』と、Yくんの部屋の間取り図まで描いて教えてくれました。笑。)

どうにも情報が出てこなくて。
塾は同じだったけど、ランクは同じでも曜日が違ったので詳しいことは分かりませんでした。学力的には当時おそらくややYくんのほうが私より上だったんじゃないかと思います。数学の分…。涙。

なんだか、頼んでないのにいろんな友人がYくんの受験傾向情報を探ってくれて(汗)結局、受験が終わるまで誰にも分かりませんでした。


なんだかんだあり私は志望校にナントカカントカ合格しました。
ギリギリでした。。
当時は公立高校の受験チャンスは1回きりでした。
私は私立高校は滑り止めからチャレンジ校から尽く全滅して(涙)まだ願書受付してる都内私立高校に慌てて出願、受験、なんとか合格し、最後の最後の本命校に漸く合格しました…
高校浪人になってしまうかとヒヤヒヤでした…

Yくんですが、受験のために学校に来なかった日に試験があったのは、近隣では、私立のちょっと変わったところだけでした。
どういうことなんだろう…
と友人たちが心配してくれてました。

たしか、合格速報みたいなのが塾から配られて。
Yくんが合格したのは近畿地方の高校でした。

どういうこと?
引っ越しするの??

けど、お母さんやお姉さんたちはその後も変わらずその家に暮らしていました。
当時は考えもしなかったけど、ご両親が離婚してYくんはお父さんについていくことになったのかな。と最近やっと腑に落ちてきました。
そうでなければ、卒業文集にあんな書き方はしないよな…


卒業を目前にして、喪失感がどんどん増してきました。
Yくんが遠くに行ってしまう。
私はこれからどこにココロを逃がせばいいんだろう。
高校に行けば新しい何かが見つかるかもしれない。
…って、何があるんだろう。

卒業式のあと、いろんな友人たちが「Yくんのボタンまだ第二ボタンだけ残ってるよ!!」と伝えに走ってきてくれました。
第二ボタンだけって、そんなネタみたいなことになってるなんて…
Yくんはとてもモテました。考えてみるとあまり喋ってるところを見たり聞いたりしたことないんだけども、文武両道で寡黙(ってほどでもないけど)で、ハンサムというか整った顔立ちなので、なんか誰かが投稿したらしくティーンズ向けの雑誌に『うちの学校のカッコイイ先輩♡』みたいなコーナーに載ったこともあるくらいモテてました。

私はボタンはもらいに行かないとだいぶ前から決めていました。
ボタンだけ手元に残ってYくんがいなくなったら、自分がもっと乖離してしまう恐怖心がありました。
万が一。
があったとしても、遠距離恋愛で満たされるにはまだ幼すぎましたから。


卒業間近のいつだったか、もう授業もないので自習時間なんだか自由時間なんだか、ただみんなでワイワイおしゃべりしてるだけのとき。
私は廊下への出入り口付近で何かボケッとしてました。
その時、隣のクラスのYくんが珍しく私のクラスのところに用があるらしく、人気のない廊下にトコトコ出てきました。
ああ。Yくんだ。珍しいなあ。一人でうちのクラスの誰かに用があって来るなんて。
うちのクラスを覗き込むYくんを横目で見ながら、私は本当にぼんやりとしていて、自分がYくんに声をかけられていることに全く気付きませんでした。
今思うと、乖離してたのかなあ。
誰かを呼んでるなあ。珍しいなあ。
と思いながら私は何かを思って、自分の席に戻ろうとしたんだっけな。
そしたら
「あっ、ねえちょっと待って!」
と声をかけられて、えっ、ええっ?
と我に帰りました。
えっ、私に声かけてたの??ごめん、ココロがどっかに消えてた。
「あっ、えっ、はい。なあに?」
同じサッカー部のMくんに用があったらしく、「Mくん呼んでくれる?」と言われました。
「Mくん?ちょっと待ってて。」
と言うとYくんは教室と反対側の壁にもたれてうつむき、壁を後ろ足で軽く蹴っていました。
珍しいなあ…
Mくんは、学年一と言っても過言ではないくらいモテる子でした。
けど当の本人は自覚が全然ないみたいで、誰にチョコレートをもらおうが誰に誕生日プレゼントをもらおうが誰に告白されようがどれもこれも華麗にスルー。だった不思議くんです。
ずっと同じ部活だったから何かしら用はあるだろうと思うけど、校舎内で会話をしているのを見たことがなかったので不思議だったのをよく覚えています。
Mくんは男子にも人気者で、10人近いかたまりでワイワイお喋りしてるので、私はMくんを見て「おーいおーい」と手を振って「呼んでるよ〜」と廊下を示してボディランゲージでやっとこさ使命を果たすことができました。

…中学校でYくんと言葉を交わした記憶は、今ではこれしか覚えていません。


こうして私はココロの癒しを失って、次のステップへと進んだのでした。

続きます。



にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/02/13

メンタル#7…中学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
メンタル#5…小学生〜中学生時のこと
メンタル#6…中学生時のこと

の、続きです。


最早ただの言訳ですが、家で罵倒され殴られ蹴られでしたので、私は学校ではいい子と同時に刺だらけでした。
そんなことわざわざ言わなくてもいいのに。という残酷な事実をズケズケ言ってました。
自分では普段普通に過ごしたいだけなのに、何をしても罵詈雑言を浴び、人格と存在を否定され、不要なものを押し付けられ、大切なものを破き棄てられ、誠意を踏みつぶされ、ボロボロにされていた私には、遠慮とか思いやりとか優しさとかがありませんでした。
たぶん私の発言のせいでしばらく学校に来られなくなった子が…いましたが…違うクラスになったらちゃんと登校していたので、少しホッとしました。
『考えてることは正直に発言しよう。』
の、<正直>の加減が私には分からなかったのです。

勉強はだんだんと、数学が特に分からなくなってきました。
塾には行ってましたが、勉強の仕方が分からなくなってきました。
それまでは、教科書を読んで、すんなりと理解できていたことがほとんどだったのですが、数式を見ても答えの解説を読んでも全く意味が分からなくなってきました。
塾の授業を聞いても、何故それがそうなるのか全然分かりませんでした…

学校の授業のことはあまり覚えていませんが、放送委員をやっていたときの幸せな時間を今でも忘れません。
交代で、朝の放送と帰りの放送をするのですが、帰りの放送は、部活をやってなかった私は放送を流す時間まで、職員室の横にある放送室でぼんやりと時間が来るのを待っていました。
窓から、校庭で運動部が練習をしているのが見えます。
サッカー部でキーパー練習をしている1人は、私が傷つけた子。
元気に部活動やってて良かった。ごめんね。
そしてYくん。
誰にも邪魔されず堂々とこうして見ていられるのは幸せだなあ〜。。
と過ごしていて、放送を流す時間を間違えたことがあります。多分。

告白とか、全く考えてませんでした。
だって無理だもの。
自分で自分の異常さを持て余しているのに、どうしろと。
好きだと言いながら、私が知ってる言葉は人を傷つけるものだけだから。
みんなみたいに、優しくなれないし(優しさを知らない)素直になれないし(素直ってどういうことなのかわからない)万が一両想いとかになっても、私はアタマがおかしいから、迷惑をかけるだけ。
だから、なんにも言いませんでした。
何もしませんでした。


奇跡的にグレなかった極悪な環境のなか、中学校生活を生き抜けたのは、Yくんのおかげでした。何にも会話してないけど…

ある時から私は毎週決まった曜日に通院のため学校を遅刻していました。
病院に行く時間まで、部屋の窓の外を見ていると、Yくんがうちのそばを通って学校に行くのです。
Y君がこっちを見てくれた。
という妄想で幸せな気持ちになりながら病院に行きます。
休み時間のタイミングで学校に着くと、Yくんのクラスは次の授業が体育のため、昇降口にきます。
そこでまたすれ違うのも、小さな幸せ。

こうして実体のない幸福感を抱いて苦痛から気持ちだけでも逃れるようになり、私の乖離はますます進んで行ったのだと思います。


乖離…
ずっとのちに精神カウンセリングを受けて教えてもらったのですが、幼少期から私はしばしば、自分の肉体とはズレたところに自分の精神があって、自分のことを後方やや上部から見下ろす感覚になっていました。
また、自分の体がどこにあるのかよく分からなくなって、皮膚に爪を立てたり、つねったり、叩いたりしていました。
今でもたまになります。

カウンセリングを受けている時に出会った本です。
自分のそういう状態は、研究されていることなんだなあ。と、感心しました。おかしな話ですが。
どうして、中身だけボロボロに壊れて、社会的立場を崩壊させず健常者のふりしてここまで生き抜いてしまったのか、わかりません。

 解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)


思い出しました。
もうひとつ、受けていた虐待。
原因不明の病気が続いたので、入浴しても、シャンプーを禁止されました。
疲れるからと。母が禁止しました。
年頃の女の子なのに、髪の毛がベタベタになって気持ち悪くてしょうがないので朝洗面所で無理矢理髪を洗っていると、当然、怒られました。
どうして分かってもらえないんだろう。女同士なのに。
医師にボヤいたら、スッキリした方がいいんだからシャンプーくらいしなさい。と言われました。
あたりまえー。
そしたら、数日に一度、母の行きつけの美容院でシャンプーだけしてもらいに行くという贅沢なことを暫くしていました。
わざわざ美容院に行くより自分で洗った方が楽なんですけど…
ホントに、娘のココロを理解する気のない親でした。

続きます。


にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/02/12

メンタル#6…中学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
メンタル#5…小学生〜中学生時のこと
の続きです。

部活は1年で辞めましたが、そのときお友達になったMiちゃんとは、卒業まで結構仲良くしてもらっていました。
塾に通うようになったのもMiちゃんが通ってるから、そこに私も行きたい〜。と、これはお許しがもらえ。
一緒に服を買いに行って、おそろいの服を着たり。
(このときのお金どうしたんだっけ…親にもらえたんだっけ…)
なんかいつのまにか私がY君を好きだということが周知のことになっていて(私誰にもなんにも言ってないはずなんだけどなんでそうなったのかな〜。まあいいけど〜。って感じでした。)MiちゃんもY君のことを好きでした。
ライバルというか、なんというか、アイドルに対して一緒にはしゃいでいるような感じでした。私の方が断然ムッツリだったわけですが…
と、いうのも、この頃既に、自分の精神が乖離していることに気付き始めていたのです。
こんな私では、Y君につり合わないよ。

家では虐待に耐え。
学校ではいい子を演じ。
体が悲鳴をあげている。
夜眠れない。
常に体中が緊張している…いつ殴り込んでくるか分からないから…

2年生以降は、なんかずっと学級委員とか放送委員とかやってました。
学級委員の仕事は全然苦じゃなかったです。すすんではやりたくはないんだけど。学年評議会とか全校評議会といって各学級委員が集まって行事へのナンダカンダとかを話し合う会議がほぼ毎週ありました。
ここでは弁の立つ、頭の回転の速い先輩方と話をする機会となって私にとってとても楽しい時間でした。


2年生の時に、担任に呼ばれて、何じゃ?と思ったら、生徒会に立候補してくれと言われました。
3年生がほとんどの立候補者で、2年生が少なすぎて、2年生の担任たちが立つ瀬がないとかナントカ。
知らんがな。
「部活辞めたから暇でしょ〜。やってちょうだいな。」

たしか、書記と会計と、なんだかに、4人くらい立候補してたんだったかな?
そういうふうに前に出るタイプじゃなかった子たちなんだけど、内申点目当てなのか、まあとにかく微妙なメンバーが。。
これ、対抗馬に立候補したらわたし、たぶん、勝っちゃうよ…
自分で言うのもなんだけど、彼らより、私の実績のほうが群を抜いてるもの…

すごーっくめんどくさかったのですが、立候補を断ることの方がめんどくさい事態になってしまったので、絶対に落ちる枠を選びました。
副会長。2名枠に既に3年生3人が立候補。
ここに飛び込んでしまえ。
こうすれば、同級生を蹴落とすこともなく、当選してしまうこともない!!

応援演説をしてくれた友人や、投票してくれたみんなには悪かったですけど、落選してホッとしました。
でも、次点だったのです…
3年生1人を数票越えてしまったのです…おいおいおい…あぶなかった…


時系列は忘れてしまいましたが、一時期、Y君ではない男子と秘密の文通をしていました。
クラスは違うし、全然お喋りはしなくて、ただ単に最近クラスであった出来事とかを、わざわざ切手貼ってお手紙出してました。
自然に終了してました…
あれは何だったんだろうw


今思えばおそらく乖離状態が酷かったんだと思う、喘息とは別の体調不良が続きました。
もう私は家出したくてしょうがなくて、でも喘息が酷いから夜にどこかでフラフラしてるとあっという間に野垂れ死にそうだし、補導されちゃったらまた殴られるだろうし、親族のところに逃げるにも飛行機に乗る距離だし、完全に行き詰まっていました。
そのとき母がどこのツテだかビタミン剤の何だかにハマっていて、喘息に効くのだとか、なんだの、かんだのを、食後に手のひらいっぱい飲まされていました。
辛かった…
母は夜間救急に駆け込むとき以外は基本的に通院に付き添ってくれなかったので、1人で行ってました。
いつだったか、原因不明の体調不良が続き、血液検査したら白血球が異常に増えていました。
どこを検査しても何故そうなっているのかわからず。
黄疸も出ました。
あるとき医師に、ビタミン剤を毎日手のひらいっぱい飲まされてると言ったら「そんなもの飲まなくていい!病院で言われたって言って今日から飲むのを止めなさい!」と言われました。

いつだったか、診察のあと母だけが呼び出され、げんなりした顔で戻ってきました。
いろいろ思い出して整理すると、あれはたぶん、精神科の受診を勧められたんだと思います。
けど母は精神科に抵抗のある世代ですので、「娘がキ○ガイ扱いされた」と思ったみたいです。
キ○ガイ!キ○ガイ!!
と罵倒されることが増えました。
私は精神科に行きたかったです。隔離病棟に入院しちゃいたかったです。
強制入院させられるほど壊れられなかった自分が、偉いんだか、何なんだかです。

続きます。


にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/02/11

メンタル#5…小学生〜中学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
の続きです。

私は熱心な教育を受けたわけではないのですが、今思えば何故だか「いい子」「できる子」という洗脳を受けていました。
結構染まってました。
でも、塾や習い事をしてる子に勝てるわけありません。
習ってもいないのにピアノが弾けるわけありません。
見たことも聞いたこともない方程式を解けるわけがありません。
できないことにため息をつかれることが増えてきました。
だんだんその矛盾に嫌気がさしてきました。
音楽や絵画などに興味を持って、習いたいと言っても即却下されました。
時には罵倒されました。
「誰が金払うと思ってるんだ!自分で稼げるようになってから自分の金で習え!」
と、言われました。
思い出した。
「住まわせてやってるんだから家賃と食費払え!誰のおかげで生きてると思ってるんだ!」
と、殴られたのも一度や二度ではありません。
成人してからならともかく、小中学生にそんなこと言って、この人は一体何なんだろうと思ってました。



私が通っていた小学校は、転校したり私立中学に行かない限り全員が同じ中学になる学区でした。
この小学校メンバーほぼ全員プラス、ほぼ同数の生徒が近くの小学校から集まります。
なんかもういい子ちゃんするの嫌になっちゃったので、もう班長も学級委員もしないぞー。
と思ってました。

入学してすぐ、なんか、1校に1人代表が決められて、近隣中学の生徒たちと何か交流をする生徒を先生たちが選んだんだそうです。
私は第一候補だったらしいです。
1学年360人くらいいるんですけど…
でも、喘息で体が弱いので止むなく落とされたと担任がみんなの前で言いました。
知らんがな…

で、学級委員を決めるとなり。
他所の小学校からもお利口メンバーが来てるんだから、私がやる必要ない!
と思ってたのに、私になっちゃいました。
ああ、メンドクサイ…

部活は、母がテニスをやってたからというのでずっとやれやれ言われてて、なんとなく入っちゃいました。でも人間関係に行き詰まって2年生になる時に辞めました。
先輩とかは良かったんですけど、同級生の変な方のグループに入ってしまったのです。
まともな方のグループは同じ小学校出身の、前から知ってる子たちだったので、そっちにスルッと移りたかったのですが、うまくいかず。
このままここにいたらおかしな人間になってしまう!
と、朝早く顧問の先生の机に退部届けを置いておいたら速攻担任経由で呼び出されました。
「もうあんな変な人たちと一緒にいられないです…」
と、気付いたら泣いてました。

…なんだか、思い出そうとおもっても、もう、漠然としたことしか思い出せなくなってます。そうしないと生き抜いてこられなかったですからね。

家では母が、今思えば鬱状態で、朝起きてこないので自分でお弁当を詰め(レンチンポテトと卵焼きとわかめのサラダがあればじゅうぶんでしたので簡単。)帰ってきても母は動かないので塾帰りとかに何か買って帰らされたりしてました。
夕飯作れないなら作れないでそう言ってくれればいいのですが、台所は母の聖域なので、使わせてくれなかったのです。
朝のお弁当詰めはどうせ起きてこないので文句言う前に終わってますので。
じゃあ夕飯私が何か作るよ。と言うと「触るな!!!」と締め出されます。

何故って。
母は台所で煙草を吸っていたのです。
アコーディオンカーテン等々で完全に閉め切って誰も中に入らないようにしていました。
ニオイやゴミでバレバレですっての。
私の喘息が酷いので父が頑張って禁煙した(まあ、出張と単身赴任で全然家にいませんでしたが)のに自分が吸ってるのが後ろめたかったのでしょうかね。

お料理は教えてもらったことないです。
何かの時に、「おにぎりをつくる。」となり。
調理実習でおにぎりくらい作ってますから、できます。
なので自分でやろうとするのですが、
「ご飯があつあつのうちに握らないと固まらないわよ!」
「え〜、学校ではできたよ〜。火傷するじゃん。」
「お母さんたちは慣れてるから平気なの。あんたには無理!」
「なにそれ。おにぎりくらいみんな自分でできてるのになんで私はやる前から無理なの?」
「口答えするならやってみろ!(炊きたてあっつあつのごはんを手に乗せて)ほら、やってみろ!!」

虐待だあ。
ごはんが熱くて、なんかいろいろ悔しくて、ぽろぽろ泣きながらおにぎりを作りました。
みんなはラップとかで握ってるって言うよ。と言っても「それじゃおいしくならない!」と、よくわからない主張で、炊飯器をあけたばかりのごはんを素手で握らされたのでした。

「それみたことか。泣きながらおにぎり作ってんの、ばっかみたい。」

この人はそんなに私が嫌いなのか。と思いました。

私が見たいテレビは見せてもらえない。
火サスとかエロいシーンがあるし面白くないので部屋に籠ると「リビングにいなさい」と言われ、見たくもない濡れ場を見せられ、母がテレビを見ながら寝てしまったのでチャンネルを変えると「見てるのになんで変えるんだ!」と怒られる。
これ見たくないからいい。と部屋に帰ろうとすると「一緒に見ようよ〜」

全然意味が分からない。

母がテレビを見てない時に私が見たいテレビを見てると殴られる。

全然意味が分からない。

家賃と食費払え!と殴られる。
べつにあなたの稼いだお金で食べてるわけじゃないじゃない。
お父さんのお金だし、だいたい、毎日ステーキとかお刺身とか豚カツとか唐揚げとか天ぷらとかメインメニューが1日に3つもあるような食事いらないし、それの残りが1週間くらい続くのもうんざりだし、家賃払えって義務教育中の子供に何言ってるんだろう。


そんなストレスが溜まってたんだと思います。
いつ頃からか、よく吐くようになりました。
多くは、呑気症によりゲップがたまり、それを吐き出すだけなのですが、しばしば嘔吐するようになり。
喘息っぽい何か気管支の不調で痰がしつこいのでそれを出したくて吐いたり。
中学校から帰宅する時、家に着くまでのあと20歩くらいのところで胃液が逆流してきて耐えきれず植え込みに吐き出したり…

今思えば、家に帰るのが心の底から嫌だったんですね…

続きます。

にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/01/29

メンタル#4…小学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
の続きです。

前回のエントリ、長過ぎましたね…
ざっくり書いたあと手を入れるとどうしても長文になってしまいます。気をつけます。


今、家族のみの席でネタとして話しても母は「嘘だ!」と譲りませんが、小学4年生くらいにして、私はすさまじい量のお使いを頼まれていました。
私は一応いい子ちゃんだったので、お母さんの役に立てるなら。と、できる自信がないことでも、困ったら誰かに聞けばいいや。と、まあ結構なんでもやってました。

わたしは痩せっぽちだったのもあって、太るようにというのもあり、牛乳を1人で毎日1リットルくらい飲まされてました。
水代わりですね。
毎日か、2日に1回は4リットル分を買ってました。
関西の小学校にいるとき、小学生の足で10分くらいかなあ、歩くところにあるスーパーへしばしばお使いを頼まれ。
牛乳4本、お肉を何か適当に。じゃがいも。なんとか。かんとか。

これ毎回。

今だから思うんですけどね、小学生の徒歩のお使いに、牛乳4本は無理です。
1リットル4本ですよ。
それだけで4キロですよ。

袋詰めして持ち上げた時はいけるとおもうんです。
でも、どんどん重くて辛くなってゆくんです。
だんだん、10歩ごとに休むようになります。
まだ半分だよお…ぜえ、ぜえ。

お肉は、母はメニューから素材を考えず、素材からメニューを考える人なので、自分が買い物に行きたくないときはよく「なにかお肉」いう指示でお使いに行かされました。
当時、自分の一ヶ月分のお小遣いが500円あったかなかったかくらいなので、適当に買ってこいと言われても1パック500円を超えるともうビビってしまうので、私が買ってたのはいつも鶏胸肉でした。
今でも鶏胸肉ばっかり買ってます!

父はなんだかんだでほとんど家にいなかったので子育て完全に他人事でしたが、私が成人して精神崩壊して、手首切ったりODしたり死ぬ死ぬ騒ぐようになってから慌てて私の話を少しは聞くようになりました。

先日父に、
『関西にいた時に、お使いのたびに牛乳4本頼まれてた。
無知な子供だから何も考えず引き受けてたけど、あまりにも重たくて毎回くじけそうだった。』
と話したら仰天していました。
牛乳4リットル、大人でも持ちたくないのに、そんなのやらせてたんか…
「そら大人でも嫌だわ!!」
「でしょ。やってたのよ。大変だったんだよ。」

もう何もかも遅いですけどね。
何もかも。

そして他人事のようにしていた父は、私の体をまさぐりまくり、いやがるのをくすぐりまくり、そのせいで私は喘息の発作を何度も起こしました。
もちろん父は今でもそれを反省する気はありません。
「だって構いたかったんだもん。親心だ!!あんたには分からん!!」

だからって喘息の発作を起こすまでやるのはまちがってるし、そのせいで男性不信になったのをあのひとは理解していません。


関東の学校に戻り。
私がいなかったのは2年ちょっとだけですが、クラスが増え、クラス替えもあり、引っ越して行っちゃった子、知ってたけどはじめて同じクラスになった子、仲良しだったけど今度は違うクラスの子、などなど。
お友達作りには困らなくて、前から知ってた子と改めてお友達になれたり、結構楽しく忙しかったです。
3学期の途中という変なタイミングで戻ってきましたが、学年が変わったらまた班長とか学級委員とかやらされてました。

6年生の時の担任が、転校前から嫌いだった先生でした。
いやだな〜。と思ってたら、ホントに、とんでもない先生でした。
このネタだけで本が一冊書けるくらい無茶苦茶でした。
私はちょっとリーダーシップがあったらしいのですが、塾には行ってなかったし、中学受験なんてモノの存在も知らないくらい特に勉強をしてない子供だったのですが、なんかそれなりに勉強ができたりしてたらしいです。当時は。もう見る影もないですが。
んで、私が何故か解けちゃったテストの問題を、難関校に中学受験する子が解けなかったらしく、担任に怒られてました。
そこまではともかく。
「Namiも解けてるのになんであんたができないんだ!!」

…え?
いま何か言った??

彼女はだからと言って私をいじめることはしませんでした。
なんかよくわからない不思議なサークル的なものを彼女が作ってて、テストされて、私は不合格になったらしいです。
なんかそのテスト?のだいぶのちに、私にそれを打ち明けてくれましたが、全然意味が分かりませんでした…。お勉強させられてる子って、考えてることの次元が私とは全然違うんだなあ…そのサークル的なもの、意図が全然分かんないから、合格しなくてよかったわ…
みたいな。


6年生のその無茶苦茶な担任のとき、ある男の子が登校拒否するようになりました。
私が戻ってきた時に初めて同じクラスになった子で、私は結構楽しく普段お喋りしてたし、戻ってきた当時何かと関西の学校との違いを比べる発言をしていた私に
「だったら関西に帰れよ!」
と彼は言いましたが、私は

『ああ、そうか、こういう話し方をすると、こっちの学校を否定してるように聞こえるよな。こういう言い方は今後止めよう。』

と気付きました。
この点は、本当に彼に感謝をしています。
彼がああやってバシッと言ってくれなかったら、私はズルズルとああいう言動を続けていたと思います。

そんな彼が学校を休みがちになり。
ある日、クラスの女子は自習になり、男子は全員、隣だったかの社会科資料室に呼ばれました。
まともじゃない状況。ってか、この担任のもと、まともな状況だったことは皆無ですが。
私はその時も班長だか学級委員だかをやっていましたが、これはたぶん男子が酷い目に遭うぞ。と思い、自習している教室を抜け出して、社会科資料室のドアの下の方の空気穴のところから四つん這いで中をのぞきました。
(女子たちは多分、そんな私を見て見ぬ振りをしてたんだとおもう。笑。)

そしたら。
20人くらいいる6年生の男子。
まだ細くてちいちゃい子もいます。
全員並んで正座。
それを端から順に担任が平手打ちしていきました。

ありえない。
ありえない。

登校拒否しちゃった彼をからかってるのかいじめてるのか、そういう子もいますが、明らかに無関係な子もいるのに、男子というだけでまとめて全員平手打ち。
ありえない。

私はそっと教室に戻って、一人で怒りをフツフツさせていました。
女子たちはたぶん私の様子で、何が起きているかを察したと思います。

男子たちが戻ってきて。
私は同情と怒りの気持ちをどうすればいいのかわからず。
男子たちは誰も何も言わずに黙ってました。涙目の子もいましたが何も言いません。
言いようがないですよね。
私も、端からぶたれているのを覗き見してたとは言えないので、誰かが何かを言い出すのを待っていたのですが、誰も何も言わないので、私も聞くことができませんでした。

それから15年後くらいに、当時の同級生の男子にその時の話を聞くことができました。
登校拒否した子をみんなでいじめたのは本当だそうです。
最初は冷やかしとかからかいだった。そしてそれが徐々にエスカレートしてゆき、止めなくてはと思っても、もう止められないくらい勢いがついてしまって、いまだに後悔をしていると。
登校拒否してた子とは、私は中学でも同じクラスになって、隣の席になったり、たまたま同じカンペンケースを使ってたり、小学校の最後の2月には、チョコ頂戴!ってずっと言ってたので、私には本命もいなかったもんだから、近くの酒屋で買ったガーナチョコレートをあげたくらい結構仲良くしてたんだけど、中学2年生のとき学校に来なくなったまま転校してしまいました。


小学生の時の後半の記憶は、トンデモ教師への怒りと、トンデモ教師の罵倒のなかでみんなでどうやって生き抜くかを考えることでアタマがいっぱいだったのか、家庭でのことはよく覚えていません。
覚えてることのひとつは、そんな嵐のような日々のなか、誰かが、YくんはNamiちゃんのことが好きなんだよ。と言ったことです。
小柄で坊ちゃん刈りだけど、塾に行っててスイミングスクールにも行ってて、スポーツなんでもできて、勉強もできて(よくわかんないけど学校の勉強しかしてない私よりとっくに先に各教科を理解してることには気付いてた)当時はたしか私より小柄だったけど文武両道でおとなしそうな彼が何で私みたいな口やかましくて痩せっぽちで色黒で、走ればビリ、ドッジボールは逃げるだけ、投げても地面に落ちるだけ、給食食べきれずいつも一人で居残り給食の私なんかを好きになるんだろう。と不思議でした。

振り返ると、この時点で私自身も登校拒否になったりしておかしくなかったんですよね。
あの時の担任は児童たちの前で堂々と「良い子」「並の子」「ダメな子」とカテゴリ分けをして、良い子はおだて、並の子は顎であしらい、ダメな子は罵倒しまくってました。
ありえないです。
「良い子」カテゴリにいた私は反骨精神旺盛なタイプでもあったので、理不尽な指示のもとリーダーをさせられるのが嫌になって、指示をほっといたことがあります。
そのとき
「ふーん、Namiはもうみんなを引っ張ってくのやめるんだ。」
とクラス全員の前で言われ
「はい。」
と答えました。
男子を端から順に平手打ちしたみたいにするならやりやがれ。
と歯を食いしばって担任を睨みつけて待っていましたが、
「じゃあもう頼まない。」
と言われて終わって拍子抜けしてしまいました。
平手打ちされたらその足で職員室に行って全部わめいて、そのまま校長室に乗り込んで行こうと思ってたんですけど、お釈迦になっちゃいました。。。

続きます。


にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/01/26

メンタル#3…小学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
の続きです。


小学生の時の私は、体育と音楽以外はオールAあるいはオール5をとれてました。ほぼ。
音楽は、ピアノ弾けないし楽譜読めないのでしょうがないです。頑張ってる。ってことでBか3でした。
体育も、徒競走は万年ビリだしなんだかんだ。リレーの選手なんて私とは完全無縁でした!
でも、体重が軽かったせいか逆上がりは普通にできてたし(空中逆上がりは無理でした)跳び箱も6年生のとき5段は飛べてたし(当時は身長が平均以上あったので6段は行きたかったけど身体能力が無理でした。)マラソンは割と好タイムだったのと、真面目さだけで3かBを死守してました。
あと嫌いだったのは給食。
好き嫌いはほとんどないんだけど、食べきれないんです。
アラフォーの最近になって気付いたのは、家で食べさせられすぎだったんです。
夕食はステーキかお刺身かハンバーグか豚カツがそのあたりが必ずあるし(豚カツは3枚から4枚食べさせられます)朝食はその残りをがっつりです。
そうすると、お昼におなか空かないんです。
で、給食食べきれなくてお昼休み無し。お掃除の時間も食べて、5時間目になってやっと開放される。

音楽の時間は、転校前は、楽譜読めなくてもメロディー覚えちゃえば歌えるし、とりあえず右手でリコーダー吹けてるみたいだし、自信は全く無いんだけどまあついていけてるのかなって思ってました。成績はBだからまあ、音楽教室とか行ってないんだからCじゃなくてよかったよね。くらいな。

ただ、転校先の小学校とは音楽の進み具合が全然違って、転校先ではみんな当たり前に両手でリコーダー吹いてました。
転校前は右手だけで「たこたこあがれ」とかを延々とやってたのですが、転校先はみんな両手で普通に「エーデルワイス」を吹いてるんです。
デタラメにリコーダー吹いてる私を見かねて放課後に音楽室で音楽の先生に特別指導をされました。
分からないなら吹かなきゃいいのに…と、クラス中大騒ぎさせました…あはははは〜。。。
特別指導で習ってみたら、なんだ、簡単じゃん。。
なんでこれをさっさと進めなかったんだろうか、転校前の学校は…。
とりあえず左手の音階とエーデルワイスを覚えたら特別指導から解放されました。
一部の子には再転校間際まで、私がデタラメリコーダー吹いてたことをど〜のこ〜の言われてましたが、そういえば、私をせっせといじめてた女の子たちはそこら辺全く触れてこなかったなあ…私のデタラメリコーダーに気付いてなかったのかなあ…

…今思い出した。転校前にピアニカでやってたことは転校後の学校はハーモニカでやってたんです。鍵盤ハーモニカじゃなくてハーモニカ。ピアニカ何それ状態な転校先の学校の子たち。
あれはたしか、転校直後に知り、そもそもハーモニカを持ってないので入手し(させられ?覚えてない。)音程の配置が鍵盤ハーモニカと同じだと分かって、吹いたり吸ったりする法則も速攻で覚え、ヨシ来い!!と思ったらもうハーモニカを吹く必要はなくなりました…。
そのかわりというか、アコーディオンを弾く機会を得ることができました。
『音楽わかんないのにこんなの弾けって言われたって!!
しかも和音もやるの!?
そんなのやったことないよ!!』
と泣きそうでしたが、
『ピアニカを縦向きにして、左手はジャバラを動かしてれば音が出る。そんだけ。指使いはとりあえず隣の人のを真似しましょう。』
と分かったら、とりあえず授業や音楽祭をこなす程度にはついていけました。。たぶん。
左手にボタンがあるのだったら絶対無理でした。。小学生じゃやらないのかな。

何をどういじめられてたかの話は、ここでは端折ります。


ここまでの話では、転校経験者の方からすれば特に、『よくあることじゃね?』と思われると思います。
うちがおかしかったのは、私は3年生の2学期の途中に関西に行き、5年生の3学期の途中で戻ってきました。
学年が変わるとき、せめて学期が変わるときとか、きりのいいところで移動させてくれよ!!
そもそも関西と関東で教育指針が全然違うし、教科書も全く違うし、なにより方言ですん〜〜〜ごいいじめられ、そんで、関東の小学校では体操服はブルマで、関西では男女共通の紺色短パンでした。

私は、すぐ関東に戻るからかなんか分かりませんが、結構長いこと関西の小学校の体操服を買ってもらえませんでした。
すぐといっても2年の予定ですから、小学生には永遠のような時間です。

うち、財閥系サラリーマンだったから、体操服買うお金くらいあったはずです。
今だから強く言います。
小学生の体操服買うお金がないほどの金銭苦労は当時全くなかったはずの家庭です!!

毎日胃に詰め込まれてるステーキ半切れのお金で体操服くらい買えます。
そんでも、「無駄だ!」つって、結構長いこと買ってもらえませんでした。
今までブルマなんて履いたことのない子たちのなかに突如私が現る。

「中学生になったらブルマだよ、信じられない、あんなのただのパンツじゃん、いやだいやだ!!」

と言ってる子たちのなかにいきなり登場する緑ブルマの転校生。わたし。

浮いた浮いた。

今思えば、子供だって人間関係に苦労するとか、そういうことを全く慮る心のない親たちでした。
少しの違いのせいで、ものすごい攻撃を受ける。
そんなこと、転勤族の親たちのほうがよっぽど気付いてたはずだと思うのですが、子供にはそんなの関係ねえと思ってたらしい。


その当時からうちの母は鬱っぽい状態で、朝はなかなか起きてきませんでした。
あ、あと、小学生のとき私たちの朝ごはんはパンが多かったのですが、飲み物はインスタントコーヒーでした。
おやつタイムもインスタントコーヒー、ときどき、サイフォンで入れたコーヒーでした。
嫌いじゃなかったから飲んでましたが、あれで私は最初に胃とメンタルを悪くしたんじゃないかなと思います。
お友達が「コーヒーは子供だから飲まない。紅茶とかミロとか飲んでる。」って言うのを聞いて、子供ってコーヒー飲まないの??なんで??カフェイン??なにそれ、刺激が強いの??それってよくないの??ちょ〜飲んでるんだけど…
と、呆然としたことを覚えています。

小学校に着ていく服を気にしてもらった記憶はありません。
服を買いに行っても、お嬢様が着るようなドレスばっかり見て、学校でドロンコになれるような服は絶対買ってくれないんです。
困って困って、親戚から送ってもらったお下がりの服のなかのワンピース、今日はこれでいいや!
と思って着てみても、合わせられるインナーがなくて、脇から上半身丸見え。
ブラウスを合わせてみたらお嬢さん過ぎて完全に浮く。
どうしたらいいのか分からなくて遅刻しそうになったこと何回かもう覚えてません。
もちろん、寝る前に<明日着る服を揃えて枕元に置いてから寝る>なんて躾は受けてません。
のちのち、知りました。
前の日の夜に、家族が、明日着る服について指導してるんだ、よそんちは!!
朝パニクって騒いでも他人事のように放置されるか酷く怒られるかで、指導なんかしてもらったことないよ!!
関西の学校は困れば体操服で行けばよかったので、そういうときは早々に開き直って体操服で行くことにしました。
冬はどうしたのか覚えてない…

靴も、運動靴を買ってもらえないのでカジュアルドレスシューズみたいなので体育に参加してたら先生に怒られました。たしか違うクラスの先生でした。運動会の練習の時だか何だかで。
『なんでこんな靴履いてくんの、体育なのに。』
って。
だ〜よ〜ね〜。
だ〜よ〜ね〜〜。
先生、それ、うちのおかーさんに言ってください。
運動靴買ってくれないんです。

って、もしかしたら言ったかもしれません。
よく覚えてない。。
靴のことは本当に困ってたので殴られるの覚悟で言い続けてたのですが、殴られたのかもしれないんだけどもう覚えてない。。
ある時突然、買い物先で「選びなさい」とうんざりした顔で言われました。
うひょ〜!!
本当は
『みんなが履いてるあれとかあれとかがいいんだけど、なんか値札の数字が大きいよ。
あんまり数字が大きいと、のちのち、あんな高価な靴を買ってあげたのにお前と言うやつは!!と、よくわからない理由で殴られる!』
という確信があったので、なにげなくノーブランドで数字が少ないのを選んで「これがいいです。」と言ってました。
大人になって思うと、大事大事に育てられた子が履いてた運動靴と、私が漸く買ってもらった運動靴。たぶん当時の価格としての違いは3,000円くらいだと思います。
これが高いか安いか。
安くていいんですけども、運動靴買ってもらうのに、お金がないという理由ならともかく『お前なんかに余計な金使いたくネエのに何ゴチャゴチャ言ってんだ!!』って態度を乗り越えて訴え続けないと運動靴一つ買ってもらえない。
でもお友達は、何の軋轢もなくすんなりと、私が履いてる運動靴が2つか3つ買えそうなのを買ってもらえるんだな〜。安くていいからバトル無しで買ってもらいたいのにな〜。
と、思ってました。


そんなこんなで。
私は妹と4つ離れていて、私が関西の小学生の時は妹は幼稚園生でした。
母が朝起きないので、パンを焼いてコーヒー入れて(今思うと幼稚園生にコーヒーはないよなあ。。お砂糖とミルク沢山いれたけど。)食べさせても、妹は食が細くてなかなか食べないし、私は妹を幼稚園に送ってからそのまま学校に行ってもまあ間に合うので、今日はお姉ちゃんと行こうね。と言っても「おかあさんと幼稚園行くの〜〜!!ギャ〜」
と、びくともしないので、起きない母に「お母さんとじゃないと幼稚園行かないって聞かないから、私もうどうにもできないからね?」と言うと「今日は休ませる〜。」

そんなんばっか。

で、鬱っぽい母は私が小学校から帰ってきても寝てる。
妹のお迎えに行かなくちゃ。(その日はどうやってか忘れたけど幼稚園に行ってた。)
「お母さん動けないからあなた行ってきて。」
まあ、そうはっきり言われれば行きますが。

で、行ったら。
お迎え遅めだったみたいで、クラスだったかお遊戯室だっかたでほぼひとりで妹が遊んでた。
…っていうか、普通お迎えに小学生のお姉さんは来ないので、私自身の存在が完全に浮いてました。。

「遅くなってゴメンネ〜。お母さん具合悪いからお姉ちゃんが来たよ。さあ、帰りましょう。」

と言うと

「いやだ〜〜〜おかあさんじゃなきゃいやだあああああ〜〜〜〜!」

と、号泣。
柱かなにかにしがみついて動かない。

こまったな。
たぶん先生の方が困ったと思いますが…
私も小学生ですのでこれ以上なだめる手段は持ち合わせていないですし、母が絶対に動けない状態ではないことも分かってますので、先生に

「母、たぶん来られますので、呼んできます。ただでさえ遅いのに更に遅くなっちゃいますけどすみません…。」

と謝りました。

「こちらは大丈夫よ〜。お母さん無理しないようにね〜。」
とかなんとか言ってくれた気がします。

帰宅して母に状況を説明すると、何も言わずむっくり起きて迎えにいきました。

動けるんじゃん。

もちろん、私に対する労いの言葉も、妹に対する、不安な思いをさせたことの詫びの一つもありませんでした。

続きます。

にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/01/24

メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと

メンタル#1…幼少期のことの続きです。


知能テスト1位で入学した(らしい)第一期1年生。
普通の公立小学校です。
あんまりいろいろ覚えてないです。
ちょっと前まで、忘れていいことまで何でもかんでも覚えてて邪魔だったんですけど、年かしら。どんどん忘れてきました。

出身幼稚園によっては、幼稚園で既にピアニカは習っていて、持ってる子が半分くらい。
小学校に入って初めてピアニカに触れる、私が行ってた幼稚園の子が学校経由で買ったピアニカの方が鍵盤数が少ないと言うよく分からないことに。
保育園からの子はうちの学校の場合結構少なかったのですが、たぶん楽器屋さんで買ったっぽいのを持ってきてました。

小学1年生のとき。
たぶん知能テストの結果を見て教師が児童の扱いを振り分けるんでしょうね。
順序は忘れたけど、班長さんとかなんとかそういうのをいつのまにかいろいろやらされてました。
あと、何だったのか未だに分からないんだけど、授業中に、他のクラスに行って、やはり授業中のところへお届けものをする。
って仕事がしょっちゅう与えられていました。
授業から多少抜けても勉強に追いつけないことはないとでも思われてたんでしょうか〜。

んでも私も人並みに幼かったので!
1年生の初期の頃。
「みんな〜!ランドセル背負いますよ!さあ並んで!!」
と言われ、何の訓練だろうか?
と、からっぽのランドセルをとりあえず背負って列に並んだら、集団下校でした…
そんなこととはつゆ知らず、ランドセル以外なんにも持って帰らないまま帰宅したわたし…

「おかーさーん…おうちに帰るんだとは思わず、ランドセル背負いなさいって言われたから背負って列についてきたら、お帰りだった…全部学校に置いてきた…」

とても覚えてるエピソードです。
結局どうしたのか覚えてないです。
自分で取りに行った記憶はないし、学校は近くだけど、その頃確かまだ給食がなくて(新設校で給食室の設置が間にあってなかったらしい)1年生だからまだお昼前に帰宅してた気がします。だからたぶん、取りに行く必要のあるものはなかったんだと思います。


そんなんで、よく覚えてないですが、年がら年中班長さんは当たり前。
気がついたら年がら年中学級委員もやるようになってました。

親としては、あたりまえの状態だったらしいです。
両親は高校の先輩後輩の関係なのですが(結婚したのはかなり後のこと。結婚までずっとつきあってたわけではないらしく、そんなに空白期間があった理由はよく分からない。)父はなんかとにかくず〜っと主席。大学だけはたしか1科目負けて次席で卒業だったと聞いた気がします。
母はずっとテニスをやっていて、試合試合試合。
同時にずっと学級委員長だったそうです。
だから私が知能テスト1位なのも学級委員常連になちゃうのもあたりまえだったっぽいし、逆に私も、学級委員くらいできないと家で人格否定されちゃうので、当然だと思ってました。


教育ママパパかと思われると思いますが、親はド田舎生まれド田舎育ちですので、「勉強なんか自分ひとりでやるもんだ」ってかんじで、私はなんにも習ってませんでした。
文化芸術の教養にうちの親は1ミリも興味がないのでそういうお稽古事は一切させてもらえませんでした。
唯一、お習字とそろばんは、それぞれ2年くらいさせてもらいました。
お習字は、団地内の同級生のお母さんが自宅でお習字教室をやってたので、なんとなくの流れで。なかなか上達しませんでした。
そろばんは、関西に転校してたときみんなが習っていて、そのカルチャースクールのある建物に行けば入学案内とか申し込み窓口とかがあるのですんなり手続きしてもらいました。たぶん公営の、お稽古事に特化した施設だったんだと思います。
隣でやってるバレエ教室に行きたかった…
でも2年でまたもとの学校に転校するって分かってました。
戻った先には、近くにそろばん教室が無くて、続けられませんでした。
暗算が超苦手で、暗算のせいで4級を3回くらい落ちました。それっきりです。

音楽関係を習いたかったのですが、「うちはお父さんもお父さんも音痴だから無理」。
バレエに興味を持っても、私は猛烈に体が硬いので「あんたには無理」。
…習ってみたら案外できるかもしれないし、レッスン受ければ体柔らかくなるかもしれないのに〜!!
たぶんレッスンに連れて行ったり面倒見るのがめんどくさかったんだと思います。
ちなみに私たち姉妹は学校に行ってる間に突然の豪雨に見舞われても、一度も傘を持ってきてもらったことはありません。
お友達たちが親に持ってきてもらった傘で帰るなか、まだ低学年で体も小さい妹を昇降口で探して、「雨雨降れ降れかあさんは〜 蛇の目でお迎え来てくれない〜♪ぴちぴっちじゃっぶじゃっぶずぶ濡れだっ!うははは〜!」と上着を妹の頭から被らせながら帰りました。
帰宅すると大抵、母は昼寝しています。んで、起きません。

また、先の話しですが、塾や高校通学で駅方面から帰ってくる時にも突然の雨だと、多くのおうちでは車でお迎えにきてもらったり、車じゃなくても傘くらい持ってきてくれるそうですが、うちの場合、ダメ元で電話で頼んでも
「眠いし雨だし寒いしめんどくさいから濡れて帰ってきなさい。」
この返事のみです!
他所のおうちでは夜道が危ないからってお迎えにきてくれるそうですが、そんな理由で迎えにきてもらったことは一度もありません〜。

とにかく
「子供のために送り迎えをする」「子供の教育・成長のために情報収集をする」「子供の気持ちを考える」ということが全く無い家でした。
このため、後年、妹は
「他人の気持ちを思いやるとか、気を遣うってことがなんなのか全然分からない。思いやりをもって優しくしてもらう、接してあげるってどういうこと?」
と、悩んでいました。

冗長になってきちゃったので一旦ここまで。

続きます。

にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ