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2024/02/14

フラッシュバックから復帰中。

仕事帰り、乗り換え駅近くのサイゼリヤで1人飲み。



だって、仕事先の最寄駅にはろくに飲食店がないし、電車の本数が少ないからさっさと電車に乗りたい。うちの最寄り私鉄駅にはなんにもない!ほんとになんにもないの!!

ここのサイゼリヤにはカウンター席もあるので、1人飲みもしやすい。本当は他にお店を開拓しようと思ってたんだけど、値段の割にはなあ…と思ったら、サイゼリヤがあるならこっちにしましょう。とサクッと。このラム肉美味しいよね。ホント美味しいよね。ワインこの量で200円って、家で飲むより安いよね。すごいよねサイゼリヤ。

このところフラッシュバックがあって辛い。
わたし育ちが悪いのでね、若い頃に親から浴びた罵詈雑言とか暴力とか理不尽な仕打ちとか気持ち悪い話とか思い出してウウウとなって、せっかくの休日をずっと睡眠薬で寝させて過ごしても全然良くならなくて、以前神経科の医師から処方されて余ってたPTSDに効く漢方を引っ張り出して飲んで3日くらい。やっと少し浮上してきたので今日は遊びに出かけてきます。
何がトリガーになるのかよくわからないんだけど、暇になると特にダメなんだよなあ。
わたしホントに結構重症なのに普段元気でね。根っこはものっすごい楽天家なんだろうな。いや、楽天家でいないと生きて来れなかったからだとも医者から言われたけどもね。
次の診察の時また漢方出してもらおう…。。

さーて、おでけけおでけけ!!


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2023/04/05

教授が逝ってしまった。

本当はもうちょっと、これまでに何件かブログ更新するつもりだったのですが、仕事がひと段落してサテと思ってる時に、教授の訃報が。

教授は強がりを言わない方なので、このところは本当にお辛いのだろうとは思っていました。
順番は忘れましたが、ユキヒロさんが亡くなって、教授は日本に帰ってきてて。楽器も収録環境も全然ダメ〜とじたばたなさってて。

RSSリーダーで読んでる広田レオナさんのブログのタイトルで「え?」と思って確認して、私の心は悲しみに溢れました。

ただのファンとして、覚悟はしてました。相応お辛いのだろうとは思ってました。
だけどこんなに、ユキヒロさんを追いかけるように、そんな、私まだ聴けると思ってた。

ソースを確認していませんが、あまりの辛さに「逝かせてくれ」とおっしゃったという記事も。

私もがん患者ですが、部位が全然違いますし、ステージも私は一応まだ2bかな?病院がステージを説明しない方針なのか私がまだ軽いから言わないのか知りませんが、診断書の内容確認したら分かります。

私のがんなんて、とりあえず全摘出して、いちおう抗がん剤やって、ホルモン治療なうで、今とっても元気です。だけど摘出手術は痛かった。再建のエキスパンダー入れなければそんなに痛くないし、私の場合、お酒が強いから痛み止めが効きにくいというのもあり痛かった。(関係あるのか知らんけど、おかげさまで麻酔酔いは皆無だった)おなか切ってないからなんでも食べていいしで。再発や転移は怖いけど、今やるべき治療はやってるから、ホルモン治療が終わることになってる9年後くらいまでにはどうなってるか分からないけど。

私の抗がん剤は、血管が痛かったこと、点滴に使った静脈が崩壊しちゃって血行悪くなったこと、最早採血でさえ使える血管が限られてしまって検査のたびに四苦八苦される以外は元気で。
だけど、お腹切ってなくても痛いものは痛かったし、私は痛み止めが効きにくいらしくて(たぶんお酒強いから。大事なことだから何度も言う。)摘出手術の時は本当に痛かったけど、食事が普通食だったから、食事で気晴らしできた。結構美味しかったから。

摘出手術後に痛くて痛くて、強い痛み止めの点滴過ぎたらロキソニン効かなくて、カロナールなんて何このサプリみたいなの!効いてる気が全くしない!カプセルの中身入ってるの??ってくらい効かなくて、トアラセット出してもらってやっとホッとした。

教授ほどのステージになってしまうと、ほんとに、どこもかしこも痛くて辛かったと思います…。それでもギリギリまで演奏を配信してくださり、東京都へ意見書を出してくださって、命かけて音楽を愛し、命かけて日本を守るメッセージを発信してくださった、そのことも含めて涙が止まらなくて、訃報を聞いてずっと泣き暮らしています。

私程度のファンでもこんなに悲しいのですから、どれほど多くの方々が悲しんでいることでしょう。

私は20代後半から結構派手に精神を病んで、育ちの悪さのせいなのでまだ治ってはいませんが、教授の音楽にかなり救われています。
不眠症が今より酷かった時は、Aromascapeを子守唄代わりに聴いてないと寝付けない時期がかなり長くありました。
中谷美紀が「砂の果実」坂本美雨が「The Other Side Of Love」を出した頃には私は完全に壊れていて、この曲たちが私の傷に染み入って、ドラマ「永遠の仔」でもメインテーマを教授が作ってて、そのエンディングテーマをやってたイクシードにハマりました。
わたしは教授の音楽がなかったら狂ったままで、どこかで死体になってました。
教授の音楽があったから、今も生きてて、あっけらかんと生きてて、がんを患っても「かつらを誉めて!シリコン乳触ってみて!!ムニュムニュでしょ!!」と陽気に過ごすことができました。

抱えてる悲しみはもちろんまだあります。
だけどもうこれらはしょうがないです。今を生きちゃてるのだから。
Yくんが突然遠くに行ってしまった謎。何も言わずにお別れした後悔。
だってね。Yくんが私を好きだというのが本当なのかただの噂なのか分からなかったけど、私に会いたいのなら、いつか会いに来てくれるはず。と、ずっと待っていたのです。
全然来てくれないから、Yくんがいるであろう地方に行ったこともあります。具体的にどこにいるのか分からなかったので、徘徊しただけです。10代の頃。
成人してから、狂おしいほどに会いたくて、Yくんの実家に電話した。お母様が出た。私の本名も何者なのかも、連絡先も伝えて、伝言をお願いした。電話口の雰囲気から、たぶん伝言してくれないなと思った。なぜそんなに動揺するの?ってほどお母様はオロオロしていた。事情があるのだろう。

そんな悲しみを、教授の音楽で癒してもらってた。
A Day in the Park,美貌の青空、シェルタリングスカイ、中谷美紀に提供した楽曲、美雨ちゃんが歌った楽曲、たくさんのインストゥルメンタル、今は全てが寂しくて私は何にも手がつかない。

そろそろ、活動に戻りたい。このままでは泣いたまま廃人になっちゃう。






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2023/02/16

私はちょっと珍しいタイプの精神科患者。台湾ラーメン美味しいね。

私は26歳だったか27歳だったかから精神科に通ってます。
家庭環境がおかしかったので小学生の頃から精神科の受診をしたいと思ってました。中学生の時には精神病院に入院したいと思ってました。幼稚園くらいから喘息を患い、中学生の頃から喘息以外のよくわからない症状も出て無茶苦茶でした。それで親は医師から、私に精神科の受診を勧められたみたいなのですが、当時は精神科の通院歴があったら人生終わる風な空気もあったのと、親がバカなのもあって放置されて、私はどんどん狂っていってました。高校は全寮制のところに行きたかったのですが、喘息がかなり酷かったのでそこで落とされると思って諦めました。

高校時代はもう無茶苦茶で、毎日母に殴られてて、高校の規則通りのバッグやらコートやらを買ってもらえず(うちは中流階級の下より上だったと思います。親の収入としては。)「namiにはみんなと同じものは似合わない」という母の訳のわからない主張で校則違反のアイテムしか買ってもらえず、当然先生には怒られ、たぶん内申点も下がったんでしょうね〜。
家では何しても殴られ、見たいテレビなんか見せてもらえるわけがなく。部屋で勉強しててもエロいドラマが始まると連れ出されて見させられ。
たまにしか帰ってこない父は私の体をいちいち揉みしだき「おっぱいえぐれてる〜」「美人だけど色気が足りん。」「お尻が小さい」

触るなボケ!!!
と100回は言いましたが1個も通じませんでした。可愛がってるのになんでそんなに嫌がるのか!と怒られました。
○ねばいいのにこいつら。
それで自宅から通える距離の大学や勤務先だったけど一人暮らしをしたのです。
けど電話を引くお金を出してもらえず、高校時代バイトさせてもらえなかったのもありお金がなくて、電話がないと(携帯電話が普及してない時代)バイトも採用してもらえず、けど仕送りは家賃分程度のカツカツで、喘息の薬をもらうための通院費と薬代もかかるのに、どうやって生き延びたんだっけわたし。
あまりに辛くて奨学金の申請をしてみたのですが、親の収入が割と多めなので却下されました。

社会人になって、それでも親孝行したいと思って旅行のプレゼントをしたりなんかいろいろしましたが、1個も喜ばれず。「疲れた〜」だけ。
金払って疲れたって言われるだけって、何コレ。
それと色々あって私の頭が壊れて、もう医者に頼らなきゃ無理だ。と思って精神科の受診に行きました。
そしたらグレたり発狂してないのが奇跡なくらい酷い家庭環境だと言われ、2年か3年か、自費のカウンセリングと保険適用の薬物療法を受けました。自費の分がすっごいお金かかりました。

…からの、46歳でがん発覚。
私は子供の頃、通院の送迎とかしてもらったことないです。病院のスタッフの方が「今日ひとり?」と心配するので申し訳なかったくらいです。喘息の発作でもう死ぬかもってくらい辛い時にも「うるさい自分でなんとかしろ!」と怒鳴られ、私が救急車呼ばないでと言ったからほっといたみたいなこと言ってました。言った覚えねえわ!言ったとしても親の判断で呼べ!アホ!
学校帰りに豪雨になってしまって、みんなの親御さんは傘を持ってきてくれたり車で迎えに来てくれたりしてましたが、うちは電話して頼んでも「めんどくさい、濡れて帰ってこい。」という環境でした。わたし喘息持ちなのに。
肺炎で入院になっちゃったら手続きはしてくれましたが、「かわいそう、かわいそう」と第三者にアピールするだけで、まあ、放置でしたね。幼稚園児の時も喘息で入院したんですけど、他の幼児患者が水飲みを用意してもらって横になったまま水分補給してたのに、うちは「そんなのなくても起き上がって飲め」でした。起き上がれなかったら水飲ましてもらえませんでした。虐待だよねこれ。入院してるのに。
だから、私のがんの手術の時にコロナ禍で面会禁止だったのが却って良かったです。
検査、入院時、手術、抗がん剤治療全て父が送迎してくれたのが滑稽でした。
なに今更親ぶってるの?
娘の病気のために甲斐甲斐しく行動したって、人に話すネタにしたいだけでしょ。全部筒抜けだよ。

乳がんは肋骨の外側の手術ですのでたぶん内臓を手術する方よりシンプルな痛みだと思うし(酒に強い人は痛み止めが効きにくいらしく、結構痛かったけどトラムセットが私には丁度良く効いた。部分摘出の方や再建しない方はこんなに痛いことはないらしいです。)都合よく態度変える親を、もし面会に来てたら、入院中は右腕あんまり動かないし他の四肢もヨロヨロだったので殴る蹴るはできなかったかもしれませんが、うっかりしたら点滴台、それもなかったら取り外しできるベッドの柵を武器にして殴り倒してたと思います。

母が、私の抗がん剤中に腎臓がんが見つかって、急遽ダヴィンチで部分摘出して、片方の副腎も取りました。
母はかつて「私は誰にも大切にしてもらえないから検査なんかしないでさっさと死ぬの!私にかまわないで!私なんか死んでもあんたたちには関係ない!!」と言ってたんですけど、まあ、父が検査にやっとこさ連行して発覚したんですけど、はぁー、見つかったら父におんぶに抱っこで手術頑張りましたね〜。なんなの?やっぱりこの人ボケてんだろな。

で、その母の腎臓の反対側にもがんができて、来月手術だそうです。
父情報。
なんかもうさあ。
「おかあさん、死んじゃイヤ!絶対大丈夫だから!頑張ろうね!!」

って娘じゃないんですよわたし。
「さっさと死ぬ言うとったやないの、頑張るんだ。へー。さっさと死なないんだ。へー。」
と、言いたいんです。
自分で思って嘲笑っちゃうのが、とても罪なことですが、さっさとしんじゃったらわたしどうなっちゃうかしら、怨念から解放されてしばらく社会的に使い物にならないレベルに狂うかしら、それとも怨念をぶつける場所がなくなって、やっぱり狂うかしら。

ってことです。
親に育てられたのは十数年。あとは自分の責任で30年生きてきたのに、いまだに親から受けた虐待を憎むんだなあって。どんなに自分で頑張っても、幼少時に傷つけられた心は回復することなんかないんだなって。わたしはただ、何故か、グレなかっただけ。社会に対して誠実でいたいという気持ちはあった。ただそれだけ。とかいって割と攻撃的なので、嫌いな人はこてんぱんにしてきた。鈍感なのでいつのまにか傷つけてた。もしかしたら八方美人の毛がある。だけど嫌いな人はぶっ潰す。それは八方美人ではないのでは…。



台湾ラーメンを食べました。
1人で外食できるようになるまで、ファストフード店だけの期間が相当長く。入りやすそうな九州ラーメン屋からだったかなあ。あ、1人でロンドン旅行とか行って、ひとりでパブランチなりなんなりしないと飢えるから突入したのが先だったかな。
酒飲みですがあまり一人居酒屋はしません。あんまり食べないけどたくさん飲める人なので、引き際が辛くて。けど最近それもぶち破ってきた。

そんな私には母「なんでそんなに1人でどこでも行けるの?お母さん知らないとこに行くのイヤ〜」と言います。1人でも2人でも、知らないところに突入するには思い切りが肝心ですが、行ってみて楽しかったらラッキーだし、なんか違ったらさっさと帰ればいいただそれだけのことですが、母は、ハズレだった時に取り返しがつかないと思ってるようです。

なんつーか、専業主婦だからこうなったってカテゴライズは当てはまらないと思うんですよね。性格の問題だと思うのですが、私の幼少期に散々社会にほっぽり投げてきたくせに自分主体になるとなにオドオドしてんのバカじゃないの社会的引きこもり脛かじりの年金泥棒。って言いたくなりますわ。

ああ、今日は毒が止まらない。



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2023/01/12

poetic monologue

育った環境が異常で、児童養護施設に保護されたい、もしくは精神病院にぶち込んでほしいと心の底から思ってた子供の頃。

出戻り転校で戻ってきた時は楽しかった。前から知ってる友達、新しい友達。
私は賢い子だったけど、塾に通ってる子たちや習い事に打ち込んでいる子たちにはぜんぜん敵わない、次元が違うと気づき始め。
自分で勉強しろと親は言うけど、勉強の仕方もレベルも全然違うからそういう問題じゃないのにうちの親はばかなのかなと気づき始めた。
中学受験なんてものの存在を知らなかったので、中学校に上がるときに引っ越すわけでもないのに同じ中学に行かない子がいて、そういう子たちは学校の勉強とは全然違うことを毎日頑張ってたんだと、中学生になってから知った。

中学生になって、理数系が苦手だと気づき始めた。
それでも基本的に賢い子だったからか、ずっと学級委員になっていた。
だけど家庭環境が悪いゆえ、性格が捻じ曲がっていて、口が悪いことでもちょっと有名だった。
何故ってさ、年がら年中、この世の恥、住ませてやってるんだから家賃払え、払えないなら出て行け、と言われつつ、痩せていたからか毎日吐くほどの食事と両手一杯の栄養剤を与えられて黄疸になったり原因不明の白血球増加とか、喘息発作起こしても「うるさい!!」何回もう死ぬと思ったことか。毎日殴られ蹴られ。
そのくせ、顔だけは褒める。
私のことを美人だと言い張って、同級生や他の誰かの顔を貶す。
何でそんなこと言うんだろう。私の顔、変なのに。心も頭も、おかしいのに。


小学生の頃からお酒を飲まされてた。
今でも飲むけどさ。
普通、クリスマスでも正月でもないただの夕食時に小中学生にビール焼酎日本酒ワインウイスキーブランデー一連飲ませないでしょ。狂ってるよね。

父に体を触られて。
挿入しなければ虐待じゃないの?
思春期の少女の体を弄り回す父親っておかしくないですか?
何度も、やめて!と振り払っても、可愛いから触りたいのに。と自分を正当化するだけ。
私が嫌だって言ってるんだからやめろボケ!!!
父の手が伸びてくるたびに、触られる前に叩いたり逃げたりしても私がどれだけ嫌だったか今でも理解してない父。

これで男性に仕事以外で近づくのが嫌になった。恋愛に興味がなくなったのもこのせいだと思う。

こんな悪夢の日々に純粋で透明な優しさを言葉もなくくれていたのがY君。
今みたいに寒い季節は特にY君を思い出す。
近所のちょっと広い公園、テニス部に入ったけど下手すぎて凹んでた私は日没後ひとりで練習をしていた時があった。土台にゴム紐で繋がったボールがついてて、ひとりでポコポコやるの。
これはできるけどわたしサーブが入らないのよ。しょぼん。とラケット抱えてしゃがみ込んでる時に、サッカーのリフティングしてる音が聞こえて。街灯が暗くてよく見えないけど、この公園でこんな時間にそんな練習しにくる人は同世代では限定できる。そしてたぶんわたしを認識しているのに声をかけてこないムッツリが誰かもすぐ見当がついた。
下手くそな練習見られて恥ずかしいな。だけど私が運動苦手なのは小学生の時から知ってるだろうからもう開き直ろう!えい!えい!へたくそ!
とヤケになってる間にY君は帰ってて。
私は2年生になってテニス部を辞めたので、ほんの数回のこと。
今でもその公園の夜の街灯を見ると思い出す。
あそこに私がいて。あそこにY君がいた。もう33年も昔のこと。

Y君とは近所だったんだけど、通学路に、すれ違うルートを使ってた。
谷間にある住宅地から高台に昇らないといけなくて。どっちで行っても時間は大して変わらないんだけど、Y君はうちの横を通るルートを使ってた。
ばったり会っても、Y君は私が何か言っても黙って笑ってどっかいっちゃうのが小学生の頃からの常だったから、またはぐらかされるのは寂しいし虚しいから私はずっと黙ってた。
当時、冬は女子は学校指定のコートを着て良かったんだけど、男子は学ランだけ。マフラーもしてなかった気がする。まあみんなワイシャツの上にジャージ着て学ラン着てたみたいだけどね。冬のY君は両手をポケットに入れて、明らかに私に気付いてるんだけど、見られてるの分かるんだけど、何も言わずにすれ違ってた日々。

この道なんだけどなあ。
もう二度と会えないのかなあ。
昨日のことのように覚えているのに。

大学で女っ気のないゼミに入って大学院まで行ったのは知った。ゼミのホームページがあってね。たぶん全員チェリー。って隠し文字が入ってた。

そこからさ。

いつか私に会うためにY君は清廉なままでいてくれてると妄想して自分を癒してた。
私だけのお伽噺を夜な夜な心で読み返して生きてきた。
だけどもうその魔法は解けちゃうみたい。

Y君が私に再会する気があるならとっくにコンタクトとれてたでしょ。
そうじゃないから今でも音信不通なのよ。
わたし、電話したのよ。何故かすごくお母さまが狼狽えてたので、私の電話番号伝えてって言ったのよ。伝えてくれなかったのかな。無視してるのかな。

霜柱を踏みながら歩いたよね。
学ランのポケットに両手を入れて、首をすくめて歩いてたよね。
私が謎の体調不良で保健室で寝込んでた時、元気はつらつなはずのY君が保健室の廊下から覗き込んでたよね。
アイロンで火傷して一日中、保健室で借りた保冷剤握りしめて行事に参加してた私の手を少し遠くから気の毒そうな目で見てくれてたよね。
卒業直前の自由時間は、用もないはずなのにベランダでうちの教室が見えるところまで来てたよね。
幸せだったなあ。
あの頃の私じゃ、Y君には駄目だったの。私、狂ってたから。だから告白しなかった。

今の私も狂ってるけど、あれからここまで生きてきたこと、喘息は治っちゃったけどがんになって治療頑張ってもう元気なこと、私のくせにガテン系な仕事してて、10メートルくらいならひょいひょい昇っちゃうのを見てほしい。
見てほしいよう。

あの階段をY君が昇っていたのに。ここですれ違ったのに。ここでリフティングしてたのに。Y君がいないの。

最近は夢にも出てきてくれないの。普通に考えたら家庭持ってるよね。私じゃないどんな女性を選んだのかな。

33年も経つのに、私やっぱり狂ってる。

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2015/12/31

大晦日と正月のトラウマ

大晦日。

みなさん今年はどんな一年でしたか?
私は、昨年初頭に婚約の口約束をして、うちの親に紹介と会食した翌週に婚約破棄し絶縁し、本業をフリーで専念し始めて2年目となりました。

いろいろな思いがあり、懐は寒くてもあそことは絶対に仕事はしない。と決めたり、私に対する態度がどう考えても許されざるものな人をほぼ常に外注で呼んでいるところに「あの人がいるなら行かない!」とNG宣言をしたり、まだ駆け出しの子や、舞台業界の裏方を目指す若い子たちの相談に乗ったり指導したり…
(私だってまだスッゲーヘタクソなんだよっ。。)

ブチ切れたら鬼も黙らせるnamiさんですが、仕事中はよっぽど危険なことだったり、危険だらけなのにナメてかかってるのか、ガンガン仕込み中の舞台でよそ見してスマホやってる若い劇団員に注意するのがよっぽどです。

「おいおまえさん、私の安全を守るために脚立を押さえてくれてるんだろうけど、そんな体勢じゃ、私が何かを落しても、私自身が落ちてきても、気付かないでしょ。
スマホが忙しいんだったら、そこにいられるほうが却って危ないから、楽屋でやって頂戴な。押さえてくれてなくていいから。」

そんなこともありました。
私が新米の頃はそんなふうに丁寧に言ってくれる人なんかいなかったよん。
丁寧だから逆に怖いとも言われますが、無駄に怒声あげて場を萎縮させる方が嫌じゃん。

そういう調子で注意した別の若者が、急用を理由にバラシをバックレて、Facebookで私から名前が見えないように(直接繋がってはいなかったんだけど、タグ付けで見えてた)ブロックしやがったりね〜(- -;;

自分でもそのつもりでいましたら、友人や後輩もそう思ってくれてたらしく「namiさんが注意するってよっぽどアレだったんでしょ?その程度でそんなんじゃ、舞台の仕事無理だから。ってか、どの仕事もできないよww 気にすんなww」と言ってくれて、ああ、分かってもらえてたんだなあ…と思いました。


大晦日とお正月。
今年は、年越し蕎麦やお節に拘らず、気ままに過ごしています。
年越し蕎麦もお節も、季節の行事だから乗らなくちゃ。と思っていたのですが、私にとっては辛い過去を思い出させるばかりだと気づき、今年はやめました。

物心ついた頃から家を出るまで、大晦日に必ず母がわけのわからない発狂をしていたのです。
お正月に誰かが訪問してくるわけでもないのに10人分くらいのお節を作り、年越し蕎麦を茹でながら『ムギャ〜〜〜!!!』と叫びだし
『私は家政婦じゃない!!』
『人のことこき使ってギャ〜!!』
『誰のおかげで生きてると思ってるんだ、私は飯炊き女じゃないぞ!何様のつもりだ!家賃払え!!(小中高校生の頃から言われてました。でもバイトは「うちが貧乏と思われるじゃないか!」と完全NGでした。)

お節の準備なんて、言ってくれれば手伝う気200%だったのですが、台所は母の聖域で(隠れてタバコ吸ってるのを知られたくなかったからだと思われる)牛乳を飲みたいだけでも台所に入ると大騒ぎされ、別の話ですが部活かなにかのことでおにぎりを作っていきたかったのですが、

「おにぎりは炊きたての熱いのを素手でにぎらないと固まらずバラバラになる!!」
「あんたなんかにできるか!!家事を舐めてる!!」
「ラップを使っておにぎりなんかできるか!バカか!悔しかったらやってみろ!!」

と言われ、私も負けず嫌いですので炊けた瞬間のごはんを素手で握りました。
一応ね、家庭科の授業で何度もやってますからね。
でも、炊きあがった瞬間空気に1分でもさらしたらアウトみたいに煽ってくるのを浴びながら握ってたら、熱さよりも悲しさでいっぱいになりました。

なんで私はこんな悲しい思いをして塩おむすび作ってるんだろう…

そう思ったら涙があふれてきました。
それを見た母は、我が勝利!といった声色で
「言ったこっちゃない!熱くて泣きよる!みっともない!どけ!!」

…とまあ、普段からこんな目に遭っていまして。
大晦日こうですので、お正月なんか全然気持ちよくない。
理不尽に怒鳴られて存在全否定された翌朝じゃ、お節も全然おいしくない。
お屠蘇は「みりんで作っても美味しくない」という理由で日本酒100%のものを年齢一桁の頃から浴びるほど飲まされていました。
今でこそお酒美味しいと好んで飲みますが、当時は苦痛でした。
お年玉で欲しいものを買いたくても「そんな子供っぽいもの買うな!(子供なんですけど…)」で結局使えず、不本意な何かを買ってた、かな?


ホントにお正月にいい思い出はひとつもありません。
妹が結婚してお正月に母と二人きりになるようになった父は、この状況に耐えられず、ここ10年ほどは毎年お正月にどこぞへ旅行に連れて行っています。
私がカウンセリングを受けていた精神科医の話によると、母はピーターパン症候群で、なんだかんだを耐え続けている限界が、大晦日とお正月という節目に爆発するんでしょう。とのことでした。
更に質が悪いのは、母はそうやって自分が理不尽に大騒ぎしていると言う自覚が皆無なことです。
悪者はみんな自分以外。


自分なりの楽しいお正月を作ればいい。と思っていたのですけど、元彼は基本的に暗い人で、なんかもうとにかくめんどくさくて。
それから逃れられた昨年の年末年始。
何してたっけ。
今年はもう、いつもの休日として過ごします。

来年の抱負…
何日か考えたのですが、思いつきませんでした。
今と同等程度で。
ひとまず、2月からの旅行を楽しみに…

みなさまは、暖かくしあわせなお正月と新年をお過ごしください!



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2015/09/25

メメント・モリ

私は幼少時から酷い喘息で身体が弱く、且つ、喘息の発作で苦しんで真夜中にゼーゼーヒーヒーやってると、実母から
「うるさ〜〜い!!!自分でなんとかしろ!迷惑考えろ!!」
と罵倒されてました。
しばしば殴られてました。
ほとんど家にいないバリバリ理系の父に、理系の科目が分からなくて教えてもらいたくて話をすると
「こんな簡単なことが分からないなんて、オマエは何を勉強してるんだ!学校が教えてくれなくても自分で勉強しろ!!」
と、張り手くらってました。
わからないから教えてもらいたくて聞いたのに、怒られて、ぶたれてました。
未だに意味が分かりません。
教えてくれないなら塾に行かせてほしいと言ったら
「誰に向かって言ってるんだ!塾代払うのは誰だと思ってるんだ!それが親にモノを頼む態度か!?」
と、罵倒されました。
ちゃんと教えてくれる人に教わらないとついていけないもん。
おとーさんに教えてもらおうと思っても、バカ!バカ!教科書読めばわかるだろバカ!
ってそればっかりなんだもん。
教科書読んでも分からないから聞いてるのに…
わからないことをわからないと言って教えてもらいたくても罵倒されるだけじゃ、わかるわけないじゃん。
それなのに塾に行くのも駄目なんだったらもうこれ以上頑張れないよ。
うち、そこまで貧乏じゃないんじゃないの?
貧乏が理由で塾に行かせてもらえないんだったら、もっと丁寧に教えてください。
…とかとか、そんなふうに交渉しました。


結果的に、塾に行っても時既に遅しで、成績は伸びなかったんだけど、行きたかった大学にはなんとか行けたので、私としては良しとしてます。
学費の高い大学でした。
学費はともかく、母から逃げるために一人暮らしをした私には、仕送りが足りなくて大変でした。
当時はまだ喘息がかなり酷かったので、バイトどころか日常生活も苦しく、足りない仕送りで通院するのも大変でした。
奨学金の申請をしても、父の収入が平均以上なので、はじかれました。
いま、その話を父にしても、完全に他人事です。
「なんでお父さんに相談しなかった?」
「だってあんた相談できる場所でも態度でもなかったじゃんか。実家に帰れば私のカラダをベタベタ触るし下ネタ言いまくるし、気持ち悪くて相談どころか顔も見たくなかったわい!!セクハラ親父ってあんたのことだよ!!」

今の実母は、ボケてんだかしらばっくれてるんだか知りませんが、テメエのネグレクトのせいで私が死線を何度も彷徨ったことなんか
「そんなに大変だったの!?まあ!知らなかったわ!可哀想に!!」
と、わけわかんないこと言ってます。
一時期は普通に言い返してました。でも、全く通じません。
そんで
「あんたアタマオカシイんじゃないの?病気??キチガイなんじゃないの??病院行った方がいいわよ??キチガイ!!もうここに来ないでくれる??キチガイ!誰の子!?あんた誰??」
と、しゃあしゃあとのたまいます。


約10年前、こういう事情があって、医師から、母との接触禁止命令を受けました。
なんだかんだで、少しずつ挨拶くらいはするように、私が頑張って。
医師には「それ以上頑張るな。親だって他人。不要な情は捨てなさい。」と、言われました。
母は、それらの過程の原因が自分にあるとは、未だに、微塵も思っていません。
すべて、私のせいだと思ってて、「Namiちゃんが明るく元気になってよかったわ♡」という態度です。
それでも根本は変わらないので、今では父が苦労しています。

「おかあさんがうるさいから、もう、たすけて〜〜!!」

私たちが幼少時から苦しんでいたことを、父が今更苦しんでいます。
遅いんだよ。
そのせいで私たちは、幸せで素直で思いやりのある子供として成長することができず、優しさを知らず、苦しみながら大人をやってるのです。

今では、私が全面的に寛解した体で、現在は父も妹も、私が当時の酷いネグレクトと肉体的・精神的暴力を奇跡的に乗り越えたことを理解しようとしていますが、当事者の母は、
「最近Namiが元気になってよかったわ♪お母さん嬉しい♪Namiちゃん頑張ったもんね♪」
と、完全にお花畑です。

私は、結婚する気はありません。
子供も持たないでしょう。歳も歳だし。
妹夫婦は、子宝に恵まれず、苦労しています。
妹は、子供の頃から、自分の悩みを他人に話す子ではなかったせいか、不妊治療の辛さとかを私に話すことはありません。
お金がかかることは時々言いますが。
お金の無心は決してしません。
人工授精だか、なんだかの結果が彼女のところへ電話で届き、成功しなかったことを聞き、
「今回もうまくいかなかったんだって。あはは。残念。」
と、あっけらかんとしているので、未婚で妊娠経験もないおねえちゃんとしては、
「そっか…。」
としか、言えません。

妹の旦那さんは、とても、妹にふさわしい、努力家で、優しく、まっとうな人です。
私が結婚しようとしてやっぱり止めた人の愚痴を妹に聞いてもらいながら
「あなたの旦那さん、素晴らしいわよ!真面目、勉強家、働き者、優しくて、安易に泣かない。素晴らしい人と結婚できて、良かったよね〜。」
…と言うと

「…そうだね〜。最近は勉強が趣味みたいになっちゃってるし、よく働くし、働かされすぎて可哀想だけど、泣かないし(そもそも両親も妹夫婦も、簡単に泣きすぎる私の元彼を信用しがたいと思ってたそうで。そーなの。わたし、40過ぎのバツイチ男のお母さんになる気はなかったしね。)地味だけど至極全うな、理想的な旦那さんだよね。わたし、幸せな結婚したんだね。」

と、応えました。


私は、40歳まで生きると思わなかった。
だから、結婚願望もなかったし、早々に死ぬであろう自分のために傍にいてもらうパートナーが欲しいと考えたこともなかった。
だから、結婚してなくても、パートナーがいなくても淋しくない。
家族は…
私の死を待ちわびてるくせに、優しい親のふりしてる家族なんか、側にいてほしくなかったし。
若い頃は、男子との交流に一方的に「不純行動」のレッテルを貼り私の行動を完全に制限していたくせに、ある時突然、下ネタスラングを家で言いまくったり、外出したら「いい男引っ掛けて来い」「ステキなホテルでGo!Go!」「お持ち帰っちゃえ!」とかもう意味の分からない言動をする親も気持ち悪くて。

あの人たちがいまだ孫に恵まれてないのは自業自得だと思うのです。


先日見た、交通事故で死んでしまった小学生。
あのときは、奇跡が起きて、きっと生還すると思っていた。
願っていた。
よく考えてみれば、生還はとても無理な状況だった。
眠るような穏やかな顔をしていた彼は、きっと、即死だったのだろう。
痛みを感じる暇もないほどに。
私が、搬送される彼を見た時にはもう、心臓も、呼吸も、止まっていて、だいぶ時間が経っていた。
いちおう、心臓マッサージと酸素マスクはされていったが。

のちの報道で理解したが、彼の下半身は轢き潰されて平面になっていたのだ。たぶん。
上半身と顔は、とても奇麗で安らかだった。
遺族の哀しみは、いづれにせよ、計り知れない…

彼が死んでしまうまでのすべてを見てしまっていたお友達。
8歳の子供にはあまりにも辛いできごと。
40過ぎた私でさえ、彼の穏やかな顔と、潰された下半身、絶叫し続けるお友達、轢いてしまった運転手が腰が抜けて崩れ落ちている姿。
ふとした瞬間に思い出される。
あどけない子供が即死した顔。
お友達を突然失って狂乱している子供の絶叫と涙。

ふとした瞬間に思い出す。
あどけない子供たちを見ては、非情すぎるタイミングで即死したあの子を想う。
眠るような顔の、左半分しか私は見ていないのだけど。
眠るようにうつ伏せで横たわっていた彼。
救急の指示なのか、車が到着するまで、彼に声をかけ続けていた大人たち。
各署に連絡をしながらも「…無理だ。」と言ってたお兄さん。
ほとんど狂乱状態で泣き喚くお友達。
それをなだめるべく、後ろから肩を抱いていた、どこかのお母さん。
「死なねえよ。そんなに泣くなよ。」と、狂乱するお友達をなだめるように言う子。
彼のショックは、あのとき狂乱状態だった子とは時差を置いて、そして社会復帰には更なる時間を必要とするでしょう。

死とは、余命宣告のある死と、ある日突然予告なく執行される死。
が、あるのだな。


癌の進行が思いのほか早く、若くして神さまの元へ行ってしまう方々。

私の番は、いつごろかな。
私はクリスチャンではないけれど。
神のみもとに行ける日が決まったら。

…早いとこ、身辺整理しなきゃ、死にきれないよ!!
ちょっとまって、ちょっとまって、かみさま!!
私の番は、まだ、まだよね!!


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2015/06/23

メンタル#16 心の拠り所

だいぶ間が開いてしまいましたが、私のグチャグチャメンタルヘルスが現在に至るまでのシリーズです。

メンタルタグのうち
幼少期から大学入学前くらいまでの話は#1から#13でしています。
その続きです。
大学以降は#14から始まっています。

#15のラストに書きました。
友人に言われた言葉。

「Namiはどうして本音を言ってくれないの?」

本音…
私の言葉はいつも鋭い刃となっていて、そのつもりがないのに誰かを傷つけていて、非難され…
他人との距離のとり方が全く分かりませんでした。
入学した大学は、とても個性溢れる人々ばかりで、あらゆる分野に没頭している、いわゆるオタクがたくさんで、私は音楽が分からないし絵を描くのは好きだけど基礎デッサンができてないし、本は沢山読んだけど、かなりオタクの域に入るくらい読んでたつもりだったけど、そんな読書量はカスと思えるほどの超多読同期もいるし、アングラとして社会的には表立っていない文化に明るい同期もいる。

私は何にもできないし何にも知らないのに、とんでもない人ばっかりのところに入ってしまった〜。。

そんな想いで、なんにもできない自分がここでどうやって生きていこうかしら…と考えていました。
私はみんなよりものを知らないので、みんなの考えや、日々のことを聞きたかったんです。
それでちょっとおとなしくしてたら「心開いてよ!」と言われてしまいました…

私にはなんにもないし、今までの人生辛かったことばっかりだし、親のことは大嫌いだし、一般常識も経験もなさすぎて、これから外の世界にはじめて触れるようなもので…

その時の友人は、二人でいる時はできるだけ私のことを聞いてくれるようになりました。

「これから知って、これから経験すればいいんだよ!とりあえず、今自分がどう感じてるか、どうしたいのかを自覚するところからじゃない〜?」

当時は軽くイラッとしましたが、まあ、その通りで…。


そして、メンドクサかったのが、恋愛関係です。
私は女子高出身で、そもそも男に興味がなかったので学外に彼氏を作る気もなく。
大学に入ったら、なんか、一部で私は「カワイイ」部類に入れられてたようでした。
女の子たちも、レズじゃないんだけども「Namiちゃん今日もカワイイ〜♡」と抱きついてきたり…
吹き出物がひとつでもできたら「カワイイ顔が!もったいない!早く治しなさい!」と怒られ…

男の人も、結構モーションかけてきたみたいですが、とんでもなく鈍感な私は、遠回しに言われても気付かず。

私にとって理想の男性は、中学卒業で遠くに行ってしまったYくんのまま、止まってしまっているのです。
40代になった今でも…。


担任が無茶苦茶な人で、クラス中が毎日臨戦態勢だった6年生のとき。
口だけ達者で怖いもの知らずの私は担任に売られた喧嘩を買ったりなんかして。
そのあとのクラスの雰囲気をもとにもどすため、Yくんは遠回しに動いてくれていました。

中学ではずっとクラスが違ったけど、クラスを越えた学年全体の出し物をするとき、いつものように私が仕切り役になってしまい、わーわーやってる私に、指示出される側として黙って他のメンバーを誘導してくれたり。
Yくんがそう動いてくれれば、みんなそれについていくから、安泰!
やんちゃくんもいるんだけど、Yくんの動きについていきながらこの出し物の意図を察してくれたやんちゃくんが
「おっけーNamiちゃん、オレらこのあとこっちに行くのね!アイシーアイシー!!」
と、Yくんに加えてやんちゃくんもついてきてくれればもう私は段取りを決めるだけ〜。
ほんとに助かりました。

私が求めていたのは、大学に入ってからも、語らずとも応えてくれる、そばにいなくても見ていてくれる人の存在でした。

けど実際は、二股三股をもくろんでる性欲爆裂男とか、なんかそういう、私の心の中のグチャグチャを知ろうともせず寝たがるのばっかりがいて、本当にウンザリでした。

1人だけ。
寡黙でマイペースで、あんまり男男してない先輩がいました。
この先輩にいくつか学外の劇団を紹介されて、何度か活動に参加させていただきました。
私はこの先輩が本当に大好きでした。
告白したいんだけど、自己評価がとんでもなく低い私。
とてもとても言い出せない。
その葛藤に、同期女子4人くらいと友人の部屋で飲んだとき、私にしては最初で最後。その先輩のことを想って酒の勢いもあり泣いてしまいました。
そのすこしあと。
先輩は、現場に出た方が実戦で学べる。と言って、中退してしまいました。
電話でそのことを連絡してきてくれました。
電話の苦手な私。
普段寡黙な先輩。
淋しいです。学校を辞めても、時間がある時に時々会ってもらえませんか?

と。
どうしても、言えませんでした。
その先輩は今でも、中退して入った会社で活躍しているようです。
私の活動範囲とは違うので、劇場のメモなどでお名前を見つけるくらいで。



そんなことがあっても今なお。
情けないほどに。
私はYくんに会いたい。
私には最早、私が最後に会ったYくんの年齢の子供がいてもおかしくないくらいです。
というか、いるべきです。
自分の息子ほどの年齢だった、少年時代のYくんへ想いはせ生きている自分。
情けない…

mixiでもFacebookでもGoogle+でも、みつけられません。
彼は、誰かと繋がっていたいと思っていないのかな。
はるか遠くの高校に行く事情さえ、とっても仲良しの幼なじみにさえ話さなかったと聞いてます。
旧友に、自分の話をしたくないのかな。
単に、SNSに興味が無いのかな。

私はいま、歪んだ形ではあるけれど、あの頃より明るく元気で、素直になったから。
あのときもらいにいかなかった制服のボタンを、ください。って、言いに行きたいのに。

あの頃私の心が健康だったら。
こんな悩みなんて無いけどね。
けど、狂った少女時代を過ごさなかった私がどんな大人になってたか。
今の私が嫌いなタイプの女になってたかもしれません。

続きます。

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2015/04/14

メンタル#15…大学以降

メンタルタグのうち
幼少期から大学入学前くらいまでの話は#1から#13でしています。
その続きです。
大学以降は#14から始まっています。


入りたかった部活を諦め…
どうしようかなと思っていると、私の専攻コースは代々、それだけで部活動みたいな活動をする歴史のあるところでした。
新入生歓迎会は専攻コースの先輩方やOB、先生方によって盛大に行われました。
あれれ…

いろいろお話を聞いてみると、私たちの専攻分野は授業での座学や実習だけでは学びきれないのと、実習でもいろいろ人手が必要なので先輩方の実習を手伝いつつ経験を重ねてゆく活動があるとのこと。
強制ではないですし、私はこの専門分野がやりたくて入った訳ではなく、ここしか受からなかったから来たんだけど…
せっかく入ったんだから、しっかり勉強しよう。
そう決めて、2年生に進級する時に試験を受けて転科する方法もあったのですが、途中参入するより4年間きっちり勉強しようと思って転科はやめました。



学校は通えない距離ではなかったのですが、家にいたくなくて一人暮らしをしました。
親にお金を払ってもらう訳ですが…
九州のド田舎出身のせいか、都内で女の子が一人暮らしをする家賃相場を無茶苦茶安く見積もっていて、5万円以内のところ!と、学生に部屋を仲介するなんとかっていうところに母に連れて行かれました。
5万円以内ということは4万円代ということで、普通のワンルームマンションはあるわけがなく、女子専用の風呂トイレ共同アパートに住むことになりました。
エアコン無し。キッチンとベッドがついてます。
お金払ってもらうんだからあまり文句も言えないし(殴られる)我慢しました…が、エアコンがなくて夏暑すぎて(窓を開けておくにも1階だったから怖かったので)お風呂も決められた時間しか入れないし、夏はゴキブリ大量発生で、バルサンして帰ってくると死骸がゴロゴロゴロゴロ…耐えられず、3年生になる時に、こぼれる分はバイト代で頑張ろう、と、引っ越しをしました。しかし3年生時に持病の喘息が酷くなり、毎晩発作を起こすようになり、このままでは孤独死するかもしれない…と、4年生の時に実家に戻りました。
実家はやっぱり地獄でした。

はじめて一人暮らしするとき、電話を引いてもらえませんでした。
当時はまだ電話の加入権なんてものが必要で、7万円くらいかかりました。
「用があったら大家さんに電話して呼んでもらうから、いらないでしょ〜。そっちから用があったら公衆電話でかけてくればいいのよ。」

…おい。昭和何年代だよそれ。

電話がないのでバイトに応募しても全然採用してもらえなくて困って困って、どうにか説得しつつ自分でもお小遣いを切り崩して半年以上経った頃やっと電話を手に入れました。
今でもそうですが、私の健康状態や近況を心配して電話がかかってきたことは一度もありません。
一度も、です。
他のお友達は「学校どう?」とか「ごはんちゃんと食べてる?」と毎日のように電話がかかってきてるようなことを言ってましたが、私は未だかつて一度もそういう電話を受けたことありません。
…一度、サリン事件の時に留守電が入ってました。そんだけだな。
とことん私に関心ないんだなと思います。



仕送りの金額も、他のお友達に比べるとだいぶ少なくて。
うちの学校はセレブという自覚のないセレブの子女と、母子家庭で奨学金を受けながらバイトもしつつ授業料を払ってる人とが混在している珍しい学校です。
実習などの都合でなかなか定期的なバイトができないので、奨学金を申し込んでみたことがあるのですが、親の収入が充分すぎるってことで却下されました…
喘息持ちで、今思えば酷い神経症だったので深夜バイトとかできる体力がないので、ホントにお金には困りました。
先輩やOBから単発バイトを頼まれることがあるので、慣れてきたらそれでだいぶ稼げましたが、私は当時現場で機転の利く動きが全然できなかったので精神的にも辛かったし、呼ばれる回数も少なめでした。


と、いっても。
親から解放された生活は天国でした。
いきなり怒鳴られたり殴られたりしない!
わーい!

同時に悩みとして実感しだしたのは、他人との距離のとり方が全然分からないなあ…というところでした。
出会った瞬間お友達!って感じの同級生が多い中、たとえばお友達の家に行ったら、どう動けばいいんだろう…
カーテン開けたり窓開けたり、私がやってもいいのか?
冷蔵庫からジュースをもらうとき、自分で開けていいのか?
逆に、お友達をうちに呼んだとき、自由に伸び伸びとしてくれる態度が不快ではないんだけど、なんか、そんなに私との距離を近くとってくれているのか…?
と、ほんとうにどうしていいのか分かりませんでした。
お友達の家にお泊まりをそれまで全くしたことがなかったからだと思います。
おばあちゃんちや親戚の家とかに行っても、かりてきた猫みたいに座ってることしか許されませんでしたし。

いちど、友人の一人に
「Namiはどうして心を開いてくれないの?私に本音を言ったことないよね?」
とかなんとか説教されたことがありました。
お酒も入っていましたが…
どうすればいいんだ…?
と本気で悩みました。

続きます。


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2015/03/26

メンタル#14…大学以降

メンタルタグのうち
幼少期から大学入学前くらいまでの話は#1から#13でしています。
その続きです。


大学に合格してすぐだったか、受験直前だったか忘れてしまいましたが、私は歯医者で、何かと頬の内側をゴリゴリ噛んで大変になった親知らずと、ずっと邪魔だった右側上下の八重歯を抜きました。
八重歯は「チャームポイントなんだから〜」とず〜っと親に言われてましたが、なんとも日本人らしい考え方だと思います。子供だからまだしも、大人になったら、歯並びに気を遣ってないんだなと思われるだけだと思うんです。
…っていっても、八重歯抜いただけで歯並びはガタガタなままなんですけどね…。

私の右側上下の八重歯は、犬歯が完全に外側に出ていて、それ以外の歯は隙間無く並んでいる状態でした。
なので、八重歯を抜いても、矯正しなくてもスキっ歯にはならないという。
これらは、普通に会話したり食事していても唇に引っかかって切るとか、口を閉じていても出っ張りすぎた八重歯の部分がモコっとふくらんでいてみっともないとか、大人になったらあまりそんな状況は無いでしょうが、頬杖をつくとか口元に手を置いている時にヤンチャ君たちがぶつかってきた勢いで八重歯が凶器となり口の中を切って流血することが頻発しすぎてうんざりしたのです。
チャームポイントなのに〜。とか、抜歯したら高熱が出る〜。とか、散々反対されていましたが、大学入学前に強行しました。
熱は全く出ませんでした!!
歯科医の腕が良かったのか、たまたまなのか、わかりませんが、抜いた穴が塞がるまでグロテスクな歯茎の消毒に手間取りましたが、長年私を悩ませてきた2本の八重歯とおさらばしました。

そのため、大学以降の友人は私に八重歯があったことを知りませんが、高校以前の友人は「…はっ。そういえば八重歯は!?え、抜いたの??矯正しないでそんなに普通な感じになってるの?へー!八重歯も可愛かったけど、すっきりして、いいね。よかったね。矯正しなきゃいけないと大変だもんね。そんなに飛び出してたのね!?」
と言ってくれました。


私が入った大学。
勉強したかった学科には落ちて、別の学科の、消去法で残った専攻のところにかろうじて合格しました。
母校の大学は、不思議ちゃんが大集合するような学部でした。
それがよくてここだけを目指して受験しました。

そしたらまー。
何と言いますか、この業界の人は社会人になってからも割とそういうタイプが多い傾向ですが、「出会った瞬間お友達」みたいな人ばっかりで。
とりあえず同じ専攻の中でお友達を作ってる間に、うちの母校の大学の場合、部活とかサークルとか入っても入らなくても授業とか学校のイベントに参加してればもう、いわゆるサークル仲間みたいなお友達が数珠つなぎに増えるようなところでして。
いろんな同級生達がみんな友好的で、みんながみんな、どんどん繋がろうとしてきます。

私は裏方専攻なので(受験時から専攻分野を選んで受験します。)地味にしていよう…と思ってたのですがまー。
忙しい忙しい。

私は元々入りたい部活があって、そこに入るために母校の大学に入ったようなものなのですが、お稽古風景を見て

「…無理だわ。」

たしか高校で部活を決める時にもそういう理由で諦めたよな〜。
なんで、驚異的に体が硬い上に、マラソンの授業もドクターストップになるくらい体の弱い私、体育会系文化部に毎回憧れるんだろうか…。
ありゃ無理だわ…絶対ついていけねーよ…

どうしたもんかと呆然としながら、オリエンテーションとか、新歓合宿とか(学科単位でやってくれます。)新歓コンパとか(専攻単位でやってくれます。先生もOBもたくさん来ます。)参加しつつ、やっぱり、どうしよ〜。と思っていました。

そんななか。
のちのち警察沙汰になる、メンドクサい男…
普通のアルファベットにするといろいろ被るので、「Q」にしておきます。
「Q」が、モーションかけてきました。私とは別専攻です。
入学半月しないうちに、またまた別専攻の「彼女A」とつきあってると公認されてたヤツです。
こいつが近づいてきました。

書くの忘れてました。
前回まで、精神的虐待をさんざん受けてきたお話を書きましたが、もうひとつ、特異なことがありました。

私は先に書いたように、派手な八重歯に悩まされていたのですが、親からは、容姿だけはベタ褒めされて大きくなりました。
体はガリ子なのですが、顔だけは、美人だ、美人だ、と言われてました。
親族はほとんどみんな遠くにいるのですが、会うたび皆さん「美人さんね〜」と言ってくれてました。
…実質、うちの家系は両親とも美形揃いで、母方では「ミスなんとか」になった誰だかがいて、父方の従姉には、少女向け雑誌の表紙に出てた人もいます。
で、うちの親族はみんなで「美人じゃ〜。」「お人形さんごつある。」「ええ男じゃ〜。」と挨拶のように言うので、その手の褒め言葉は「こんにちわ。」と同等に思ってました。ほんとに。
今でもそうなんですけども。

高校は平和な女子校でしたのでなんともなく。

大学に入って、私が「カワイイカテゴリ」に入れられつつあって、どーすればいいんだー。と思いました。
特殊な学部ですので、とんでもなくカワイイ人、とんでもなく美しい人がたくさんいるのですが、こんなところで、裏方にいようとしている私を引っ張りださないでくれよ〜。
と、早々に悩みができてしまいました…

私はホント、可愛くも美人でもありません。
魔女のような鷲鼻で、目は小さく奥二重で、肌は黒めで、オデコがやたら広くて、えらが張っていて、全然カワイイ類ではありません。
だから、本当に困ってしまいました…
女性は褒められれば喜ぶって、100%じゃありません。
私は困るし、社交辞令だとしか思ってないのであとからいろいろ言われても意味が分からなくてメンドクサいことこの上ないのです…

続きます。


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2015/03/22

メンタル#13…高校生時のことなど

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
メンタル#5…小学生〜中学生時のこと
メンタル#6…中学生時のこと
メンタル#7…中学生時のこと
メンタル#8…中学生時のこと
メンタル#9…高校生時のこと
メンタル#10…高校生時のこと
メンタル#11…高校生時のこと
メンタル#12…高校生時のこと

の、続きです。

少し話が遡りますが。
子供は、学校で起きたこととか、遠足や修学旅行でどんなことがあったとか、お友達の誰ちゃんはこんななんだよ!とか、いろんなお喋りをしてくると思います。

私も例に漏れず、中学校の卒業旅行(と、いう名目ではなく、校外学習という名前でしたが)に会津に行ったときのいろんな話を聞いてほしくて、帰宅後母にいろいろ喋っていました。
全然聞いてくれてないなあ。
とは感じつつも、聞いてほしいので話していたのですが、ある瞬間

「うるさい!!私はあんたの話を聞くために存在してるんじゃない!!そんな話いちいちするな!!」

と、怒鳴られました。

え。そうなんだ。

聞きたくないんだ。
話しちゃいけないんだ。
私が何を感じたか、何に驚いたか、何が嬉しかったのか。
聞きたくないんだ。

その瞬間に、わたしのまわり全体にシャッターが降ろされて、何を感じても何を伝えたくてもその気持ちを受け止めてくれるところなんかどこにも無いのだ。わたしはわたしのこの中だけで喜びも哀しみも感動も悩みも一人で処理しなくてはならないのだ。
もう、なにも、話さないようにしよう。
何を願っているか。何を想っているか。
この人に話しても、聞きたくもないし、聞くために存在している『親』でもないのだと。

それより前に、中学生以前のとき
「誰に食わせてもらってると思ってるんだ、衣食住与えてやってるんだから相当額の金払え!」
と怒鳴られたことがあります。

わたし、普通に実子です。
中学校は義務教育です。
当時私はちょっと頭の回転の速い、言われたら言い返す子供でしたので

「何言ってるの?わたしまだ義務教育中だよ!大人は子供に教育を与え守り育てる義務があるんだよ。働くことも許されない中学生に何言ってるの??」

と普通に言い返したら、

「育てる価値もないわ!!自分の面倒は自分で見ろ!!理屈ばっかり主張してなにもしないくせに義務とか語る権利は無い!!」

と、意味の分からない罵倒をされました。

高校生くらいのときは

「今まで育ててやった衣食住と教育費と手間賃全部払え!!」

と言われました。

うち、貧乏じゃないんです。
食事がやたら毎日豪華で、衣は不十分(いつ着るんだよっていうドレスとかは結構ある。)教育は学校以外の何かを望んでも叶えられず。
ペットを飼ってみたくても、私の喘息を理由にNG。
中学生の時やっとハムスターを買ってもらって妹と一緒にお世話していました。
ハムスターの寿命は短いですので、寿命相応の年月で死んでしまうと、「気が済んだだろ」と言わんばかりにケージも何もかもすぐさま処分されてしまいました。


《すぐさま処分》で思い出しました。
幼稚園くらいから、母の日にお母さんに絵を描きましょうとか、ねんどでプレゼントを作りましょうとか、あると思います。授業で。
私も絵を描いたり、ねんどに色塗って紐を通して「ペンダント〜!」とかいって、喜んでくれるのを期待して、渡しました。
渡したときは
「なにこれ。フン。どーも。」
と、何かの引き出しとかに突っ込まれ、数日後にはゴミ箱に突っ込まれています。

「こんなペンダントして出かけられるわけ無いでしょ。」

と、ゴミ箱行き。

私の気持ちとか、そんなの、いらないのか。
ダイヤモンドもプラチナも買えないから、ねんどで気持ちを伝えましょ。って主旨の授業で作った作品。
もうゴミ箱行き。

もう、気持ちを伝えるためのプレゼントを作るのなんか止めよう。
そう思ったのはまだ小学生のときでした。

プレゼントでなくても、工作の授業で作ったもの。
小学生の時、筒型の、貯金箱になるプラスチック素材のまわりに紙粘土で造形をして色を付けてニスを塗って、オリジナル貯金箱を作りましょう。という授業がありました。

そのとき私はリスの貯金箱を作りました。
リスの後頭部から小銭を入れるのです。
私は自分でこれをとても気に入って、家に持って帰った時「上手にできたと思うの!」と自慢をして、自分の部屋に飾って、嬉しくてときどき手に取って自画自賛していました。

それから間もなく。ほんとうに間もなく。
ものを捨てられないタイプの母に珍しく捨てスイッチが入ったらしく、なんかいろいろ捨て始めてました。
すると私の部屋にもやってきて、ほんの数週間前に持って帰ったばかりのそのリスの貯金箱を勝手にゴミ袋に入れました。

「どうして!!どうしてこれを捨てるの!?気に入っているのに!!」
「こんなガラクタに価値はないだろ!!」
「(…ガラクタ!!!)」

私は言い返すことはすれどかなり聞き分けのいい子供だったと思いますが、このときはさすがにショックで、何時間も泣いていました。
こんな酷いことも我慢しないといけないのだろうか。
おかしすぎる。
と、泣きながらゴミ袋を漁って、貯金箱を救出して、枕元に置いてやはり泣きながら寝ました。

どんなに私が大切だと思っていることを伝えても、あの人にとってゴミなら、私の気持ちなんか無関係なんだ。
そう気付いたのは小学生のときでした。


いつだったか忘れましたが。
誰かお友達の家に遊びに行った時。
折り紙で作ったブローチとか、クレヨンで描いた家族の絵とかを、額に入れてリビングに飾ってるおうちがありました。

私はそれを見た時、心が凍り付きました。
うちでは数日後にゴミ箱に突っ込まれてたこういった拙い、けど思いを込めたものを、わざわざ額に入れてリビングでいつでも見られるように飾ってくれてるおうちがあるんだ。
捨てるどころか、額に入れて何年も大切にしてくれるんだ。

私の気持ちがどれだけ《いらないもの》扱いをされているか、痛いほど自覚しました。
本当に、痛かったです。


こんなふうに少しずつ、自分が日常的に親にされている辛いことごとは、普通のおうちでは幸福エピソードとして大切にされているという違いを現実として認識し始めました。

さんざん罵倒された数分後には「一緒にリビングで過ごそうよ〜」としつこいので、なんでさっきあんだけ私の存在を完全否定したのに今これなの??と思いつつリビングに行っても、火サスのエロシーンを見させられるだけなのです。

一人で見てればいいじゃん。
しかも寝てるし。
全然意味分かんない。
あ、歌舞伎やってる。見たい。
チャンネル変えると起きてきて殴られる。

今思えば、母は更年期障害だったんだと思います。
でもそのせいで私の人格を全否定し、理不尽な虐待が許されるとは今でも思えません。
「更年期だからしょうがなかったの。ごめんね。」
と、もし今更言われても、それで私の人格がメチャクチャになった現実は変わらないし、それを開き直られてもおかしな話です。

のちに医師たちに言われました。

「自分で自分を育ててきたのね。それだけの目に遭ったら普通はもっと捻れてしまうのに、あなたはそれを自分一人で乗り越えてきて、ここまで真っ当な、もしかしたらそれ以上の誠実な人間としてここまで頑張ってきたのね。」

そうなのか。
そうなのか。
と、涙が止まりませんでした。
私が辛かったことは、異常なほどのことだったんだ。
普通の人はこんな苦しみ知らぬまま優しさと愛に包まれて大人になっているんだ。

次からは、時系列の記憶がはっきりしなくなってくる、高校卒業以降のことを中心に書いていこうと思います。

辛かった記憶を思い出して文字にするのは、かなりヘビーな作業です。
けれど、最近、かなりナアナアな感じで両親に接しられてることと、もうそろそろだいぶ老齢な両親と今後どう向き合えばいいのか、心を整理するためにも、私のためになると思って書き始めました。



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