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2023/02/16

私はちょっと珍しいタイプの精神科患者。台湾ラーメン美味しいね。

私は26歳だったか27歳だったかから精神科に通ってます。
家庭環境がおかしかったので小学生の頃から精神科の受診をしたいと思ってました。中学生の時には精神病院に入院したいと思ってました。幼稚園くらいから喘息を患い、中学生の頃から喘息以外のよくわからない症状も出て無茶苦茶でした。それで親は医師から、私に精神科の受診を勧められたみたいなのですが、当時は精神科の通院歴があったら人生終わる風な空気もあったのと、親がバカなのもあって放置されて、私はどんどん狂っていってました。高校は全寮制のところに行きたかったのですが、喘息がかなり酷かったのでそこで落とされると思って諦めました。

高校時代はもう無茶苦茶で、毎日母に殴られてて、高校の規則通りのバッグやらコートやらを買ってもらえず(うちは中流階級の下より上だったと思います。親の収入としては。)「namiにはみんなと同じものは似合わない」という母の訳のわからない主張で校則違反のアイテムしか買ってもらえず、当然先生には怒られ、たぶん内申点も下がったんでしょうね〜。
家では何しても殴られ、見たいテレビなんか見せてもらえるわけがなく。部屋で勉強しててもエロいドラマが始まると連れ出されて見させられ。
たまにしか帰ってこない父は私の体をいちいち揉みしだき「おっぱいえぐれてる〜」「美人だけど色気が足りん。」「お尻が小さい」

触るなボケ!!!
と100回は言いましたが1個も通じませんでした。可愛がってるのになんでそんなに嫌がるのか!と怒られました。
○ねばいいのにこいつら。
それで自宅から通える距離の大学や勤務先だったけど一人暮らしをしたのです。
けど電話を引くお金を出してもらえず、高校時代バイトさせてもらえなかったのもありお金がなくて、電話がないと(携帯電話が普及してない時代)バイトも採用してもらえず、けど仕送りは家賃分程度のカツカツで、喘息の薬をもらうための通院費と薬代もかかるのに、どうやって生き延びたんだっけわたし。
あまりに辛くて奨学金の申請をしてみたのですが、親の収入が割と多めなので却下されました。

社会人になって、それでも親孝行したいと思って旅行のプレゼントをしたりなんかいろいろしましたが、1個も喜ばれず。「疲れた〜」だけ。
金払って疲れたって言われるだけって、何コレ。
それと色々あって私の頭が壊れて、もう医者に頼らなきゃ無理だ。と思って精神科の受診に行きました。
そしたらグレたり発狂してないのが奇跡なくらい酷い家庭環境だと言われ、2年か3年か、自費のカウンセリングと保険適用の薬物療法を受けました。自費の分がすっごいお金かかりました。

…からの、46歳でがん発覚。
私は子供の頃、通院の送迎とかしてもらったことないです。病院のスタッフの方が「今日ひとり?」と心配するので申し訳なかったくらいです。喘息の発作でもう死ぬかもってくらい辛い時にも「うるさい自分でなんとかしろ!」と怒鳴られ、私が救急車呼ばないでと言ったからほっといたみたいなこと言ってました。言った覚えねえわ!言ったとしても親の判断で呼べ!アホ!
学校帰りに豪雨になってしまって、みんなの親御さんは傘を持ってきてくれたり車で迎えに来てくれたりしてましたが、うちは電話して頼んでも「めんどくさい、濡れて帰ってこい。」という環境でした。わたし喘息持ちなのに。
肺炎で入院になっちゃったら手続きはしてくれましたが、「かわいそう、かわいそう」と第三者にアピールするだけで、まあ、放置でしたね。幼稚園児の時も喘息で入院したんですけど、他の幼児患者が水飲みを用意してもらって横になったまま水分補給してたのに、うちは「そんなのなくても起き上がって飲め」でした。起き上がれなかったら水飲ましてもらえませんでした。虐待だよねこれ。入院してるのに。
だから、私のがんの手術の時にコロナ禍で面会禁止だったのが却って良かったです。
検査、入院時、手術、抗がん剤治療全て父が送迎してくれたのが滑稽でした。
なに今更親ぶってるの?
娘の病気のために甲斐甲斐しく行動したって、人に話すネタにしたいだけでしょ。全部筒抜けだよ。

乳がんは肋骨の外側の手術ですのでたぶん内臓を手術する方よりシンプルな痛みだと思うし(酒に強い人は痛み止めが効きにくいらしく、結構痛かったけどトラムセットが私には丁度良く効いた。部分摘出の方や再建しない方はこんなに痛いことはないらしいです。)都合よく態度変える親を、もし面会に来てたら、入院中は右腕あんまり動かないし他の四肢もヨロヨロだったので殴る蹴るはできなかったかもしれませんが、うっかりしたら点滴台、それもなかったら取り外しできるベッドの柵を武器にして殴り倒してたと思います。

母が、私の抗がん剤中に腎臓がんが見つかって、急遽ダヴィンチで部分摘出して、片方の副腎も取りました。
母はかつて「私は誰にも大切にしてもらえないから検査なんかしないでさっさと死ぬの!私にかまわないで!私なんか死んでもあんたたちには関係ない!!」と言ってたんですけど、まあ、父が検査にやっとこさ連行して発覚したんですけど、はぁー、見つかったら父におんぶに抱っこで手術頑張りましたね〜。なんなの?やっぱりこの人ボケてんだろな。

で、その母の腎臓の反対側にもがんができて、来月手術だそうです。
父情報。
なんかもうさあ。
「おかあさん、死んじゃイヤ!絶対大丈夫だから!頑張ろうね!!」

って娘じゃないんですよわたし。
「さっさと死ぬ言うとったやないの、頑張るんだ。へー。さっさと死なないんだ。へー。」
と、言いたいんです。
自分で思って嘲笑っちゃうのが、とても罪なことですが、さっさとしんじゃったらわたしどうなっちゃうかしら、怨念から解放されてしばらく社会的に使い物にならないレベルに狂うかしら、それとも怨念をぶつける場所がなくなって、やっぱり狂うかしら。

ってことです。
親に育てられたのは十数年。あとは自分の責任で30年生きてきたのに、いまだに親から受けた虐待を憎むんだなあって。どんなに自分で頑張っても、幼少時に傷つけられた心は回復することなんかないんだなって。わたしはただ、何故か、グレなかっただけ。社会に対して誠実でいたいという気持ちはあった。ただそれだけ。とかいって割と攻撃的なので、嫌いな人はこてんぱんにしてきた。鈍感なのでいつのまにか傷つけてた。もしかしたら八方美人の毛がある。だけど嫌いな人はぶっ潰す。それは八方美人ではないのでは…。



台湾ラーメンを食べました。
1人で外食できるようになるまで、ファストフード店だけの期間が相当長く。入りやすそうな九州ラーメン屋からだったかなあ。あ、1人でロンドン旅行とか行って、ひとりでパブランチなりなんなりしないと飢えるから突入したのが先だったかな。
酒飲みですがあまり一人居酒屋はしません。あんまり食べないけどたくさん飲める人なので、引き際が辛くて。けど最近それもぶち破ってきた。

そんな私には母「なんでそんなに1人でどこでも行けるの?お母さん知らないとこに行くのイヤ〜」と言います。1人でも2人でも、知らないところに突入するには思い切りが肝心ですが、行ってみて楽しかったらラッキーだし、なんか違ったらさっさと帰ればいいただそれだけのことですが、母は、ハズレだった時に取り返しがつかないと思ってるようです。

なんつーか、専業主婦だからこうなったってカテゴライズは当てはまらないと思うんですよね。性格の問題だと思うのですが、私の幼少期に散々社会にほっぽり投げてきたくせに自分主体になるとなにオドオドしてんのバカじゃないの社会的引きこもり脛かじりの年金泥棒。って言いたくなりますわ。

ああ、今日は毒が止まらない。



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2023/01/12

poetic monologue

育った環境が異常で、児童養護施設に保護されたい、もしくは精神病院にぶち込んでほしいと心の底から思ってた子供の頃。

出戻り転校で戻ってきた時は楽しかった。前から知ってる友達、新しい友達。
私は賢い子だったけど、塾に通ってる子たちや習い事に打ち込んでいる子たちにはぜんぜん敵わない、次元が違うと気づき始め。
自分で勉強しろと親は言うけど、勉強の仕方もレベルも全然違うからそういう問題じゃないのにうちの親はばかなのかなと気づき始めた。
中学受験なんてものの存在を知らなかったので、中学校に上がるときに引っ越すわけでもないのに同じ中学に行かない子がいて、そういう子たちは学校の勉強とは全然違うことを毎日頑張ってたんだと、中学生になってから知った。

中学生になって、理数系が苦手だと気づき始めた。
それでも基本的に賢い子だったからか、ずっと学級委員になっていた。
だけど家庭環境が悪いゆえ、性格が捻じ曲がっていて、口が悪いことでもちょっと有名だった。
何故ってさ、年がら年中、この世の恥、住ませてやってるんだから家賃払え、払えないなら出て行け、と言われつつ、痩せていたからか毎日吐くほどの食事と両手一杯の栄養剤を与えられて黄疸になったり原因不明の白血球増加とか、喘息発作起こしても「うるさい!!」何回もう死ぬと思ったことか。毎日殴られ蹴られ。
そのくせ、顔だけは褒める。
私のことを美人だと言い張って、同級生や他の誰かの顔を貶す。
何でそんなこと言うんだろう。私の顔、変なのに。心も頭も、おかしいのに。


小学生の頃からお酒を飲まされてた。
今でも飲むけどさ。
普通、クリスマスでも正月でもないただの夕食時に小中学生にビール焼酎日本酒ワインウイスキーブランデー一連飲ませないでしょ。狂ってるよね。

父に体を触られて。
挿入しなければ虐待じゃないの?
思春期の少女の体を弄り回す父親っておかしくないですか?
何度も、やめて!と振り払っても、可愛いから触りたいのに。と自分を正当化するだけ。
私が嫌だって言ってるんだからやめろボケ!!!
父の手が伸びてくるたびに、触られる前に叩いたり逃げたりしても私がどれだけ嫌だったか今でも理解してない父。

これで男性に仕事以外で近づくのが嫌になった。恋愛に興味がなくなったのもこのせいだと思う。

こんな悪夢の日々に純粋で透明な優しさを言葉もなくくれていたのがY君。
今みたいに寒い季節は特にY君を思い出す。
近所のちょっと広い公園、テニス部に入ったけど下手すぎて凹んでた私は日没後ひとりで練習をしていた時があった。土台にゴム紐で繋がったボールがついてて、ひとりでポコポコやるの。
これはできるけどわたしサーブが入らないのよ。しょぼん。とラケット抱えてしゃがみ込んでる時に、サッカーのリフティングしてる音が聞こえて。街灯が暗くてよく見えないけど、この公園でこんな時間にそんな練習しにくる人は同世代では限定できる。そしてたぶんわたしを認識しているのに声をかけてこないムッツリが誰かもすぐ見当がついた。
下手くそな練習見られて恥ずかしいな。だけど私が運動苦手なのは小学生の時から知ってるだろうからもう開き直ろう!えい!えい!へたくそ!
とヤケになってる間にY君は帰ってて。
私は2年生になってテニス部を辞めたので、ほんの数回のこと。
今でもその公園の夜の街灯を見ると思い出す。
あそこに私がいて。あそこにY君がいた。もう33年も昔のこと。

Y君とは近所だったんだけど、通学路に、すれ違うルートを使ってた。
谷間にある住宅地から高台に昇らないといけなくて。どっちで行っても時間は大して変わらないんだけど、Y君はうちの横を通るルートを使ってた。
ばったり会っても、Y君は私が何か言っても黙って笑ってどっかいっちゃうのが小学生の頃からの常だったから、またはぐらかされるのは寂しいし虚しいから私はずっと黙ってた。
当時、冬は女子は学校指定のコートを着て良かったんだけど、男子は学ランだけ。マフラーもしてなかった気がする。まあみんなワイシャツの上にジャージ着て学ラン着てたみたいだけどね。冬のY君は両手をポケットに入れて、明らかに私に気付いてるんだけど、見られてるの分かるんだけど、何も言わずにすれ違ってた日々。

この道なんだけどなあ。
もう二度と会えないのかなあ。
昨日のことのように覚えているのに。

大学で女っ気のないゼミに入って大学院まで行ったのは知った。ゼミのホームページがあってね。たぶん全員チェリー。って隠し文字が入ってた。

そこからさ。

いつか私に会うためにY君は清廉なままでいてくれてると妄想して自分を癒してた。
私だけのお伽噺を夜な夜な心で読み返して生きてきた。
だけどもうその魔法は解けちゃうみたい。

Y君が私に再会する気があるならとっくにコンタクトとれてたでしょ。
そうじゃないから今でも音信不通なのよ。
わたし、電話したのよ。何故かすごくお母さまが狼狽えてたので、私の電話番号伝えてって言ったのよ。伝えてくれなかったのかな。無視してるのかな。

霜柱を踏みながら歩いたよね。
学ランのポケットに両手を入れて、首をすくめて歩いてたよね。
私が謎の体調不良で保健室で寝込んでた時、元気はつらつなはずのY君が保健室の廊下から覗き込んでたよね。
アイロンで火傷して一日中、保健室で借りた保冷剤握りしめて行事に参加してた私の手を少し遠くから気の毒そうな目で見てくれてたよね。
卒業直前の自由時間は、用もないはずなのにベランダでうちの教室が見えるところまで来てたよね。
幸せだったなあ。
あの頃の私じゃ、Y君には駄目だったの。私、狂ってたから。だから告白しなかった。

今の私も狂ってるけど、あれからここまで生きてきたこと、喘息は治っちゃったけどがんになって治療頑張ってもう元気なこと、私のくせにガテン系な仕事してて、10メートルくらいならひょいひょい昇っちゃうのを見てほしい。
見てほしいよう。

あの階段をY君が昇っていたのに。ここですれ違ったのに。ここでリフティングしてたのに。Y君がいないの。

最近は夢にも出てきてくれないの。普通に考えたら家庭持ってるよね。私じゃないどんな女性を選んだのかな。

33年も経つのに、私やっぱり狂ってる。

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2019/08/05

虐待児だった私が楽天家なフリーランスになったのは何故なのかしら〜。

自分語りが続いております。

分かってくれてる人は、今でも通ってる精神科の先生と、ぐちゃぐちゃだった時にお世話になったカウンセリングの先生。このお二人だけだと思います。

虐待児は、私以外とは接したことがほぼないんですけども。
破滅的な人生を送ってしまう方が多いのではないでしょうか。

私はそれなりに優等生でした。
幼い頃は。
もはや見る影もなく。

小学生時代はまあ普通に。
給食の時間と体育が嫌いで、出戻り転校した時の6年生の時の担任がクレイジーで、売られた理不尽にできる限りの反撃をしていました。
中学生の時は、たぶん両親からのストレスで壊れかけてて、喘息に加えて原因不明の病気(白血球が激増してるんだけど白血病ではなく、内臓疾患でもなかったらしい。医者と看護師が精神科の受診を勧めたらしいけど、例によって「うちの娘がキチガイ病院なんて!!今すぐ死ねば?この世の恥めが!!!」的な扱いを受けて放置されました。はい、通常営業で殴られてます。)。

口が悪いのと、大人にとって都合の悪い「素直」すぎて

「あんたキチガイ???」

とも担任に言われてました。
母からはずっと言われてました。

私は悪いことを言った気は全くないので、シレッとしてます。

家が嫌すぎて、何度も家出を考えましたが、当時は喘息が酷すぎてすぐ死にそうなのでどうしようかしらと思ってました。
親族はほぼほぼ九州にいるので、交通費がないよ。
ヒッチハイク探してる間に補導されるでしょ。
どうしましょ。
それに、家出して、捕まって、家に帰されたらもっと酷い目にあう...。

高校の時はなんとかやり過ごして...
大学に入って親から逃げて...
人間関係の作り方がわからずシクハクして...

んでね。
それ以前に、たぶん、辛すぎる日々を乗り越えるべく「よかった探し」をする性格になってたみたいです。

先生に怒られたけど、みんなが楽しかったならよかった。

失敗しちゃったけど、次回の教訓になるからよかった。

誰かに嫌われちゃったけど、なんで嫌われたのか全然わからないけど、変ないじめは受けてないから、いっか。

みたいな。

なんでもかんでもネガティブに捉えたり、うまくいかなかった人間関係から速攻逃げてたりなんかしたら、な〜んもできない。

それで、なーんもできない状況に自分を陥れて、他者を受け止める心が一切ないうちの母は、もう無理です。

私は「組織」が苦手なのでフリーランスをやっていますが、フリーランスは多種多様な人と関わらなくてはなりません。
そして私の本業は、時に、クライアントの脳内イメージをキャッチした瞬間にそれを再現できないと文句言われます。

会話だって、とりあえず聞いてるふりして相打ちしてればいい人と、うんちくが長すぎる人と、無茶振りが酷すぎてたまにツッコミ入れてみるけど全く功を奏さない人、などなどいろんなタイプがいます。
どんなタイプなのかというのは話してみないとわかりません。

雇い主がしっちゃかめっちゃかすぎて、業界常識を完全無視して暴走するおじーさんとか、仕事が雑すぎる方とお仕事するのはもうやめようと思った今年度です。

んで本題。
私は、人間としての基本的マナーとか態度とか片付けのコツとか料理とかなんだかんだを親からは一切教えてもらえず、アルバイトも完全禁止され(学校が禁止してたのもあるけど、うちの親は、私のようなこの世の恥は他所様に見せると自分が恥かくという理由で籠の鳥以下のほぼ座敷牢で生きてきました)完全に籠の鳥でした。
それも、むっちゃ狭い籠ね。

私は27歳くらいの時から精神科の患者です。
私のようなタイプの虐待児は、、もう相当ヤバいらしいのです。
けどね、2人の医者も不思議がっていますが、私は何故かグレなかったんです。

なんなんでしょね。
対人的に、ムカつく事言う輩にはビシバシ言い返しまして、それを悪とする人もいるようですが、私は
「この程度で傷ついてって、どないすんねん。」
という姿勢が増えてきました。

それはね。
私が楽天家だからなんだと思います。
なんで楽天家になったかというと。
実の両親が思考も行動も融通が利かない人で、視野が狭く、とてつもなくつまらない人たちなので。
もう親に何かを愛うことは完全に諦めて、誰かの信用をひとつづつ、増やしていって、私の現在があります。
新しい出会いは楽しい。
けど、自分の得にならない(技術も金銭面も合わせた意味の「得」)関係は、ばしばし切っています。

そうしていくことによって、

「なんとかなるさ!」

な性格が構築されたんだと思います。

カウンセリングの医師に言われたこと。

「現実が辛すぎるから、演劇という架空の時間を自然に求めていったのかもしれないね。」

ああ〜
それだぁ。

どこかの会社に入ることは可能ではありますが、会社というコミュニティに縛られたら、やりたいこと、できない。

辛い仕事が待ち受けていて気持ちがダダ下がりの日、みなさんはどう過ごしますか?


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2019/08/04

家族愛を知らない私。少年の心を今、想う。

今日もまたY君の話を書きます。

...と言いつつ別の話から始めます。

高校野球のお兄さん達の年齢を超えて、20代の頃は、高校球児のことをまだ「お兄さん」と思っていました。
監督やチームの仲間達、練習をサポートする親御さん達、応援する吹奏楽部や応援団。
大勢の方々に支えられて甲子園にやってきた球児たち。

試合を生で見たことはないです。
近隣の高校が割と甲子園常連校なのですが、壮行会はまだしも(って見てないけど)あとちょっとのところで負けて帰ってきたとき、ショッピングモール前の広場で報告会が行われます。

まー、選手たち、泣いてます。
ベンチチームも泣いてます。

それを、私が20代の頃は、彼らは私より若いけど、心の強さは私以上だと思っていました。

それが、いつからでしょうか。

時々テレビで地区予選を見て、勝ち残れそうにないチームも全力で挑んでいる姿が、かわいいなあ。
と思えるようになってきました。
アナウンスで、選手の性格や背景を話したりしますよね。
それが、まだ未熟だけれどもその選手の存在をがっしりと認めている感じが。
まだ10代の青年たちなんだなあ。
悔しかったら泣くんだなあ。

って。

私は女子高だったので、そういう男子高校生をまぢかで見たことはありません。
もし私が共学の生徒だったとしても、たぶん彼らをとても俯瞰的に見ていて、勝ってこようが負けてこようがスルーしてたと思います。
自分自身が同世代だったらね。
めんどくせー男。
と、思ってたんじゃないかしら。

高校球児たちが、私が子供を産んでたらとっくにそれくらいの年齢の子供がいるであろう、このようなおばちゃんになったら、そのあたりがすっかり変わりました。

強気に勝負に出るのもかわいい。
悔しくて泣いちゃうのもかわいい。
迷って動いた結果の是非に悩む表情もかわいい。

...完全に、おばちゃん目線ですな。

そのくらい、高校球児たちを、お兄さんではなく、まだ心も体も揺れている子供たちだと感じるようになりました。

かわいいねえ。
悔しければ泣いてしまえ。
そして余計なお世話かもしれないけど、マネージャーとか、応援の吹奏楽の生徒や、チアガールの生徒たちの誰かを、高校球児たちの誰かが好きだったら。
好きな誰かがわざわざ甲子園まで来て、灼熱の空の下、試合を細かく見てスコアをつけている姿や、吹奏楽部は灼熱の空の下楽器が火傷しそうに熱くなってチューニングがわけわからなくなってるというのに延々と演奏をし続けて。
チアガールなんて、先入観ですが、おめあての選手がいるからやってるんじゃないでしょか。
実は選手の誰かの彼女だったりして。
ないことないでしょ??

私はそういう恋って全くわからないけど。
ないことないんでしょ??

少しずつ、思い出してきたのです。
小学校を転校して、2年ちょっとで戻ってきたわたし。
戻ってきたクラスにいたY君。
近所なんだけど、Y君は子供会に入ってなかったのもあって、というかたぶんいろいろ習い事してて、クラスも違ったので、私が転校から戻ってきてはじめて接触したY君。
私は出戻り転校生だったので、7割ほどの同期生は記憶にあったんだけど、Y君はよくわからない子でした。
英才教育受けてるっぽいけど、見た目はみんなより幼い印象の。

まあたぶんみんな転校生は珍しいですよね。
私は出戻りなので、転校前からの友人たちが構ってくれて、転校生だっつーのに気がついたら学級委員にされてたり...。

戻ってきた環境で、誰が同じクラスで?
誰が転校しちゃったの?
誰それちゃんは何組なの?
そんなワチャワチャをしてるときに、転校前から私を知ってた男の子たちもいろいろ話しかけてくれて。

話は飛びますが、私はとても蚊に刺されやすくて。
刺されたらものすごく腫れて数日ひかないタイプ。

何かのときにまた蚊に刺されて。

「やられた〜!!かゆいよ〜。」
と、とりあえず腫れにバッテンつけたりしてるときに

「キンカン塗ればすぐ治るよ!!」

...と言ったのはY君だと思うんです。
うちは虫刺されにはウナかムヒだったので
「キンカン??」

と、驚いたものです。
すさまじくどーでもいいことです、はい...。
ただ、出戻り転校して、私のことを前から知ってる友人たちはともかく、Y君は転校前の私とは関わってないと思うんだけど、よくキャンキャン言ってるな〜と思ってました。
Y君、当時も、文武両道だったと思うのですがなにしろ小柄の坊ちゃん刈りで。

出戻ってきた私は中学生になっても問題児でした。
変に賢かったのと(当時に限る)、育った環境故。
口がとても悪く。

前にも書いたことがあると思いますが。
今だとプリクラ帳とかなのかなあ。
わかんないけど、私の頃は小学校を卒業する時「サイン帳」に何かを書いてもらうのが流行っていました。
A6サイズくらいの2つ穴バインダーに、名前とか、好きな食べ物とか、趣味とか、なんかそういうプロフィール的なものを書くフォーマットがあるやつで、それにいろいろ書いてもらってマイアルバムにするんです。
サンリオショップとかの雑貨屋さんで売ってました。
ほぼ女子に流行ったことですけどね。

フットワークの軽い男子は、ささーっと書いてくれて、気の利く連中は適当に写真探してきて(当時はチェキもないので、写ルンですで撮ったけどいらない、自分が写った写真を切り抜くとかが多かったのかな)すぐくれたんですけど、Y君はいつまで経ってもくれなくて。
私も結構しつこい女子だったので、小学校の卒業式くらいまで
「サイン帳ちょうだい!!」

と、言い続けてたのですが、Y君はニヒルに笑って(坊ちゃん刈りの小柄君だけど)スルーされてました。

なんか当時から私がY君のことを好きだということになっていたらしいのですが、文武両道で尊敬はしてたけど、なんにも言ってないし、そこらへんは未だに謎です。

そしてこれも以前書きましたが、中学校に入って私とY君は全然違うクラスになりました。
だけど、お昼のお掃除の時間の担当エリアが隣になりました。
たぶん、エリアを1人で任せてもちゃんとやるタイプが、1人1エリアを与えられ、集団でないと動けないタイプが教室内とかでチーム組んでやる担当になったんだと思います。

わ〜。Y君の隣が私の担当エリアなの??
なんでまた。
と思いつつ、サイン帳コンプリートを目指したかった私はお掃除場所の担当になって3回目くらいのお掃除の時間にY君に

「サイン帳書いたのちょうだい!」

と、言ったのですが、何も言わずにニヒルに笑うだけなので、もう諦めました。
もう、いいや。
無視してるんじゃなくて薄笑いでごまかしてるわけだから、くれる気ないんだろな。
もう、いいや。

それからは、お掃除の時間に会っても、何も言わないことにしました。
だってY君がだんまり続けるんですもの。
ばかばかしくなって。

ある時、私のいるクラスのお掃除エリアでささいなことがあって教室に戻るのがY君たちより遅くなった時。
Y君、自分の担当エリアで集めたゴミを円錐状にして、私の担当エリアに、とてもきれ〜〜〜いに積み上げてくれていました。

おい。

...。

その時は戸惑いしかなかったんですけど、もはやあの年齢の子供がいない方がレアなおばさんになったら。

Y君なりの「構ってアピール」だったのかな。

と、思うようになりました。

あのゴミどうしたんだっけな。

「おいこらあいつめ。優等生っぽいクセに悪さしやがって。」

と思いながらちりとりで回収して捨てたんだったかな。

青春ドラマ的には

「も〜Yくんっ!自分とこのゴミ、私のところに寄せて帰ったでしょう!なんでよっ!自分のところのゴミは自分で片付けてよね!ぷんすか!!」

が定石なのでしょうけど、13歳か14歳のY君に言ったところではぐらかされるだけだろうから無視しちゃいました。

Y君はどうして私に構ったんだろう。

私は口が悪いし。
私がY君を好きだという噂もどこから出たのか未だにわからない。
尊敬はしていた。
けど、尊敬するにあたるほどY君の行動を見るようになったのは、私がY君のことを好きだという噂で安定したらしき頃からでした。

中学2年生の時。
3年生の送別会で、2年生がちょっとした劇をやりました。
私は今でこそ舞台のお仕事をしていますが、当時はまさかそんな仕事につくとは一ミリも考えていなくて。
ただ単に、

「バラバラだったクラスが気持ちを一つにして美しい合唱を成功させる」

的なお話だった気がするんだけど記憶に自信がない。

9クラスの中の数十人が有志として集まってくれて、今も不思議なのですが私は演出のポジションで(当時はそんな仕事のこと全く知らない。)出演者は結構やんちゃ君が多くて人の言うこと全然聞いてなくて大変だったのですが、何故かそのやんちゃ君が多い出演者の中にY君がいて。
セリフはないです。完全にモブでした。
けど私の手に負えない制御をスルッと、大声を上げることなくしれっとこなしてくれてました。
私は当時は大声で叫びすぎるタイプだったことをなんとか修正したくて悩んでいたので、Y君みたいな人がいると助かるなあ。
と、思ったのでした。

15年前くらいはそんな、Y君の行動が理解不能だったのですが。

15歳の少年の、けなげな行動だと解釈したら。

お母さんとしては、そんな可愛い息子に変な女がくっついてきたら嫌だよね。
(バーチャルお母ちゃん妄想中。)

高校は遠くに行ってしまうのでもう会えない。
二度と会えないかもしれない。
その開き直りをY君がいつしたのか知らない。

Y君が第二ボタンだけ残して誰かを探していたという数人からの情報。


べつにね。
わたしがね。
言えない言葉を引っ張り出すためにがんばる必要はないんだよ。

伝えたいことがあるのなら。

自分で言いに来ればいい。

Y君は、来なかった。

ただ、それだけのこと。

親に心を殺された私は、Y君に「好き」と言える資格がなかった。

あれから30年。

Y君は私を探してない。

少年はすぐに新しい恋をする。

適齢期になれば結婚相手を決める。

それなりに稼いでいれば尚更。

私の中に生きている30年前の少年は、私の中にしかいない。


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2019/08/01

虐待児だったわたし。幼い恋を諦めて無視した心の痛み。

わたしが小学校入学したのは、新興住宅地の開発に合わせて新設された小学校。
私たちからすると、ひいおじいちゃん以前からその土地で生きている同級生もいた。

わたしの両親は九州の生まれ育ち。
わたしが小学校に入る直前に新興住宅地に入ってきた。
なので、昔からここで生きている人々とのギャップは逃れようがなかったけれど、他所から来た人が多かったので、他所の者の私たちとしては他人事だった。

当時は分からなかったけど。
地域密着で育った人たちは、お祭りやらなんやらで違う地域の人たちとのバトルがあったそうな。
どこにも属さない私たちは、他人事。

学校ではそんな話出ませんでしたね。
他所者の方が多かったし。


出戻り転校生のわたしにY君が興味があるという噂はすぐに立った。
文武両道のY君。
けどまだ11歳くらい。
ただ単に物珍しさで興味を持っているのは推測するまでもなく。

自分で言ったら怒られるでしょうけど、わたしは可愛かったらしい。
刺と毒をまとった生徒。
家庭でのストレスのためわけわかんない病気になって、週に一度は通院のため遅刻していた。


中学3年の時からかなあ。
通院のため遅刻するわたしの部屋が見えるルートでY君は通学していた。
ブラインドの隙間から、毎週、見てた。

告白?

それが成功してしまったら、他人との距離感をつかめないわたしには、残念さしか与えられない。

すぐにお別れしたでしょう。

言うまでもなく、Y君は知らない遠いところへ就学しました。

「お前にはこの世に生きてる価値がない」
「この世の恥。お前の存在は私の恥だ。死にたいくらいお前はわたしの恥だ。」

そんなことを毎日言われったら。

Y君、好きでした。
...て言ってもね。

Y君が私のことを好きだという噂は、誰かが流したこと。

第二ボタンだけ残して私を探していたらしいY君。

今だから言えること。

ボタンを受け取ってもらいたいなら、探して待つんじゃなくて、渡しに来いや!!!

www。


今思えばね。
どこの高校に進学するのか。
お手紙書いていいかどうか。
それっくらい聞くべきだったんでしょうけどね。

当時のわたしは
「少しでも私を好きなのならば、私が請わなくてもくれるでしょう?
くれないなら、その程度だったのさ、私。」


Y君のことはずっと尊敬していた。
Y君が私に興味を持ってくれてることに気づく日もあった。

だけどなにもできなかた。

今ではね。
17歳の少年のピュアな恋心をね。

私が潰した。


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虐待児だったわたし。幸福感を知らないままグレずに大人になる弊害。

今までも何度か書いていますが、わたしは虐待児でした。

わたしは知能の成長がかなり早かったそうで、1歳の時には普通に日本語を話していて、赤ちゃん言葉で相手をしてくれる大人にダメ出しをしていたそうです。

んまあ、小生意気な。

わたしには子供がいないのでわかりませんが、わたし自身、1歳前後だと思われる時の記憶がおぼろげにあります。
幼稚園に入る前と思われる頃に
「Namiちゃんは賢いねえ!」
と、言われまくってたのも覚えています。

女の子はそんなもんらしいですけどね。

小学校に入る時の知能テストでは、4クラス分のうち1位だったらしいです。
幼児教育はなにひとつ受けていません。

今思えば、父が出張や転勤が多く家に全然いなかったことと。
母が故郷を離れて知らない土地で、ひとりで子育てしないといけない辛さ故なのか、そもそも子育てを放棄していたのか知らんけど、なにも教えてもらったことはありません。
お料理も、家事も、おかたづけのコツも。
日々のお掃除の習慣も。
たまに帰ってくる父には身体中をまさぐられまくる地獄。

そしてわたしは、ひどい喘息で体が弱かったのもあってアルバイトには不利でしたが、結局親が認めてくれないので全くバイトできず。
かといってお小遣いが多いわけではない。
友人たちのお小遣いの7割以下でした。
うちは当時たぶんそれなりに裕福でしたが、親たちが諸々の相場価格やなんやを調べずに自分たちがそれくらいの年齢だった頃と物価が同じだと思い込んでるし、現実を言うと殴られまくるので諦めるしかありませんでした。

そのうえ、わたしは
「この世の恥」
だから、外には出せないできそこないだからということで、お友達の家へのお泊まりも禁止。
学校帰りにお友達とご飯食べて帰るのも完全に禁止。
まあお小遣い足りないからどのみち行けなかったけどね。

挙げ句の果てには
「外出すると交通事故に巻き込まれたり変な人に絡まれたりするから家にいろ。」
...そんなことを言われながら
「この穀潰し!誰のおかげで学校に行けて飯食ってると思ってるんだ。家賃と生活費払え!何様のつもりだ!!!」
と殴られまくるという〜。
「じゃあバイトする。」
「お前みたいなこの世の恥を社会に出すなんてそんなことできるわけないだろ!!!何様のつもりだ!!家賃払え!!!」

はい、もう無茶苦茶。

中学生の時に行った、校外学習という名の修学旅行がとても楽しかったので、帰宅後いろいろ聞いて欲しくて喋りまくってたら

「うるさい!!私はお前の話を聞くために生きてるわけじゃないんだ!聞きたくもないし面白くもない!!!黙れこの穀潰し!!」

...私はいったい誰の子なんだろか。
こんなん、孤児院にでも行った方がマシじゃないのか?
お風呂にはいつも一緒に入りたがるのに(触られまくるので心底嫌だった)、楽しかった話はひとつも聞いてくれない。
自室で勉強してたら、サスペンスドラマを一緒に見ようと邪魔してくる。
当時は大概女優さんがおっぱいポロリする。
濡場は当たり前のようにある。
とんねるずのバラエティを「いかがわしい」と言って見せてくれないのに、エロエロ2時間サスペンスは強制的に見せられる。
それどころじゃない、テストやばいから勉強しないと。
と言うと殴られる。

そして試験結果が悪いとまた怒られる。

大学入学と同時に家を出ました。
私は、お友達と一緒に食事をするとか、お友達の家に泊まるということを全くしたことがなかったので、積極的に友好関係を作ろうとしてくれる友人先輩後輩たちとの距離が全くわからず、とても苦労しました。

そんな苦労も、25年経ったら慣れましたけどね〜。

私は20代後半の時に、育った環境が劣悪すぎるが故の、パニック障害とか抑うつとかになって、大変でした。
リストカットもしてました。

それから数年経って、実家とたまには交流できるようになったのですが、酒の勢いだかなんだかで父が
「リストカットの跡わかんないじゃん!」
と言ったのにはブチ切れました。
わかるとかわからないじゃなくて、お前らのせいでリストカットしてたんだよ!!
こりゃ反省してないってこったな。
と思って、今後は実家に飲み会誘われても行かないことにしました。

今の私は、昔を知らない人から見ると、幸せいっぱいに育ったように思えるそうです。

全然違うのにね。

虐げられて生きてきたから、ムカつくこと言われたら、相手を完全にぶっ潰すまで言葉選びませんよ。
「人の心がわからない人非人!!!」
と、何十回言われたかわかりません。

だって、今まで誰も私の願いを叶えてくれたり相談に乗ってくれたり、雨の日に傘を持ってきてくれたり、怪我を心配して迎えに来てくれたり、体調不良で病院に行くのに付き添ってもらったことなんかないんですもの。

習い事は何にもさせてもらえませんでした。
だけど、オリンピックで金メダルを取った若い子たちや、各分野で活躍する有名人の出演するテレビを見ては

「うちの子はなーんにもできない。私だって子供に金メダル取ってきてほしいわ〜!ほんとうちの子たちは情けなくて死にたいわ。」

とかのたもうので、

「なにもさせてくれずに閉じ込めてるくせに何言ってんの??あの子達がメダルとるほど練習するために親や大人たちがどれだけ頑張ってくれてたと思うの??そんなこと言うなら習い事くらいさせてよ!!」

...と言ったら当然殴られました。

高校3年生になってからは、拳が飛んできたらとっ捕まえてひねり上げて自室に逃げてましたけどね、自室の襖につっかえ棒してもそれ破壊して殴りに来てましたね。
蹴り飛ばして追い出してましたけどね。

何故かグレずに大人になりましたが。
他人との距離感がわからず。
「自分」というものがないので。
他人に合わせると嘘がすぐバレる。
通常運転の自分のままだと「冷たい」とか言われる。

ほんとに、私は失敗作なんです。
結婚したい、それ以前に彼氏がほしい。
と全く思わないのは、自己評価が低い、それ以前にこの世に生きててごめんなさいな人間であることと、それが故に誰かが私と結婚しても、絶対に幸せにはなれないと思うからです。
幼少時から叩き込まれ続けた「生きてる価値がない、今すぐ死ぬべき」私が、誰かの妻になんかなれません。

そんな子供の頃のことを根に持たなくても。
と思う方もおられましょうが。

頼るべき人間が肉親しかいない時期に、その肉親から罵詈雑言を受けて、生きてることさえこの世の恥と言われ続けたら。

無理です。



子育てにシクハクしている人に、失敗例を語ってなんの得がある??
不安を増長させるだけです。

私は失敗作なんです。

けど、まだ生きてるから。

死に際まで自分で自分のケアができるようにしておきたい。

けどとりあえず貯金が少なすぎる。

家族がいて幸せってね。

私にとっては完全に他人事。


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2018/12/23

よくない習性

うちの母は、たぶん病気なんだと思うけど、絶対病気なんだけど、病院に行ってくれないし父も連れて行けてないので診断はくだってないんだけど、猛烈に社会性がない。
私が幼い頃は父が転勤だの出張だの単身赴任だので、頼れる人がいない土地にほったらかされて孤独に子育てして辛かったんだろうけども、それに加えてたぶんすっごい早期から更年期障害があったと思われるんだけども、それをくみしても酷い。

エピソードはいろいろあるんだけど、私が高校生くらいの頃から、母から叩き込まれたこの習性を排除しなくては。と思ったことがある。

「人の何気ない親切をとりあえず最初は断る。」

「お茶どうぞ 。」
「いえ、おかまいなく。」

本当に手をつけない。

「お茶飲んでください。」
「いえ、そんな、申し訳ないです。」
(もう注がれてます)

「お茶冷めますから飲んでください。」
「(私たちの顔を見て『まあどうしましょう、気を使わせてしまったわよ』の意味を示し)すみません...」
(一口しか飲まない。おかわりなんて頼んだら殺される。)

お茶でこれですから、お菓子なんて恐ろしくて自分からは絶対に手を出しませんでしたし、親戚の家に遊びに行った時の食事や、会食などでは、母が「食べなさい」と言うまで食べてはいけないものだと思ってました。

中学生くらいの時に、お友達の家に遊びに行っておやつをいただくとか絶対ダメ!みたいなのがあり。
お泊りなんか、この世の恥なお前が他所の家で食事をいただいてお風呂をいただいて布団を借りるなんて言語道断!!!
という扱いであることが明確になりました。
まあ喘息が酷かったので、その心配もあったのでしょうけども、

「もし喘息っぽい咳をしだしたらすぐお電話ください。」

って、言わない??
あちらからお泊りに誘われてる場合は特に。
自分が子育てしてないから理想論でしか言えないんだけどさあ。

それで、中学とか高校くらいから、お友達や先生にお菓子のおすそ分けをもらうことはすっごい罪なことと思ってたんだけどそれは全然そんなことなくて、却って失礼なんじゃねえか??
と、思い始めました。

高校生になって、確実に、私のこの思考回路が人間関係構築の阻害になってるんじゃね??
と、自覚をし始めました。
自覚をし始めても、高校生の3年間でそんなに人間変われません。

大学に入って。
変人の巣窟みたいな学部だったので、ほんっとにいろんな育ち方をした友人がたくさんできて。
そんななか。
食べ物をシェアしたり、雑魚寝したり、友達の家で料理をしたり。
ちょっとずつ殻を破っていくのは本当に大変だったけど、楽しくて。
本当に楽しくて。

私が殻を破り切る前に「Namiは心開いてくれね〜。」と思ったのか、早々に疎遠になって行った友人もいましたがまあ大学生なんてそんなもんでしょう。
と、今だからこそ思うミドルフォーティー。

大人の女どうしとかで、お菓子攻防でめんどくさいのはよく知ってます。
派遣OLもいろいろやりましたから。
毎日毎日、お菓子もらったからお返ししなきゃ。みたいな毎日。
季節ごとにソニプラとかチェックして、誰かと被らなそうな期間限定お菓子とかチェックしに行ったりして。

「近所の奥さまつながり」になると、母自身が自分で言ってましたが、図々しい人もいるそうで。
両親の実家近くで有名な和菓子を、ご近所にお土産で、まあ、何件かは配りますわな。
すんごい美味しいんですよ。
今でこそネットでも有名だし、ネットで取り寄せもできますが。
当時はそんな情報はなく。
有名とはいえ九州のド田舎の銘菓は関東地方ではほぼ知られてなくて。
それをえっらい気に入った近所の奥さまが、なんだか唐突に、マックシェイクを持ってきたそうなんです。
母はジャンクフードは食べないというか、知らない文化に突入しない人なので、ファストフードは知らないというか興味がない人で(ケンタッキー以外)。

持ち帰りのマックシェイクを家に持ってこられても、子供たち学校だし、あらどうしましょ。
で、まあたぶん、わけのわからない甘い液体として私たちが飲まされたか、捨てられたか、そこは覚えてません。
その奥さまの魂胆は
「あの和菓子美味しかったからまた持ってこい。マックシェイクあげるから。」
だったようなんですね。
近所の別のおばさんたちの話も集約すると。

あーめんどくせ。

そういうのはもー知りません。

私が今、母と正反対の行動をしているのは、反面教師が第一。
そして、人たらしでだいぶ図々しい父の性格の方が本来の私には遺伝的に強いのかもしれないと最近思うわけであります。

サービスすることが幸せなタイプもいるわけで。
それ以前に、お茶やお茶菓子は断るなよ、失礼だろ。と。

母はだいぶバカなので、一棟貸切型結婚式場のロビーでドリンクサーブしてくる方に

「あらまあご親切にありがとうございます。」

空いたグラスを下げていただいたときは

「あら、まあ、すみませんご親切に。美味しかったです、ありがとうございます。」

と、深々とお辞儀。
うちのおかーさんは遠い過去か違う星から来た不思議星人なんでしょね。
と、呆れて細目で見ながら遠ざかることしかできませんでした。

「そういうお仕事の方なんだから、スマートにサービスを受け流してくださいよ。」
「あの人優しいわね。」
「だ〜か〜ら〜〜〜〜。」

...なんだけど、本当に困っているのは懐石料理でもフレンチでもイタリアンでも、前菜くらいで満足しちゃってメイン以降全く手をつけないこと。

「もうおなかいっぱい〜。もういらな〜い〜。ビールだけちょうだ〜い。ビール足りな〜い。」

お店の人の前でシェフに聞こえるボリュームで言うな!!!
この世の恥はあんただ!!!!

究極と思われるのは、お寿司屋さんに行って、ガリが好きな母は

「わたし、ガリ大好き。お寿司なくていい。ガリだけでいい。」

と、大将に言っちゃうこと。

アウトー!!
アウトーーーー!!!
今すぐ帰れーーー!二度と来るなーーーーーーー!!!!!!


...。
そんな親の元育ち、発狂し、一周回ってまともっぽい人間になれたようでございます。

育ちの悪さはある程度自分で振り払うことができます。
それまでにいろいろ失っているけども、これからまだまだ生きてしまうなら、早いとこ、生きやすい環境に身を置いて、自分も周りも心地よくなれる性格を身につけたほうがいいです。
気の合わない人とは、いくら頑張っても無理なのでさっさとあきらめます。

誰かと仲良くなるにはやっぱり、美味しいものを共有することってとっても大切。
もし自分が好きじゃない味でも
「これがおいしいのか〜。ふ〜ん。わたし、もう満足!食べかけでよければこれも食べて!お茶おいしいね。お茶おかわりしようかな。」
なんつって、否定せずに受け流すのって、大切。

話は戻って、出していただいたお茶菓子に手をつけないのは、失礼!!
コース料理はいわずもがな!!
食べきれなくても、ひと口ずつは手をつけた痕跡をつけなきゃダメ!!

...って、母を矯正するのはもう無理だって分かってるんだけどね。
ほんと、幼少時から素直にありがたくいただく子でありたかった。
みなさま、本当にごめんなさい。


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2018/12/16

会話の成立する家族が欲しかった

本来であればもはやとっくに私自身に子供がいて、人によっては既に孫がいる年齢のおばさんのわたしです。
何度も書いてますが、私は肉親から存在を完全否定されたこの世の恥な人間なので、今後も家族は持ちません。
人間として存在してることを全否定してる肉親が、容貌だけはべらぼうに褒めて、大学生以上になってから1人でかけたら
「ボーイハントしてきなさい♪」
あたしゃ逆ナンするために出かけるわけじゃねーよ。
たまに嫌々親と出かけると
「今Namiのことをじーっと見てる人がいた。美人だからだ。さすがうちの娘だ。」

もう全然わけわからないのは、誰が読んでも明らかかと思います。
人間として生きていることがこの世の恥だと言ってる娘が美人だから人々の注目を集めてるから、合コンとか外出先とか友人の結婚式や二次会でいい男を見つけてこいと説得する親。

わけがわからない。

この世の恥で今すぐ*んでほしい娘は美人だからいい男を見つけてこい。

ニホンゴオカシイデスネ〜。

全然全くわけがわからない。

「私は家の恥なんでしょ?他所様に出せない末代の恥なんでしょ?いい男をゲットする資格なんかないでしょ??」

「何言ってるの、あなたは美人で賢くて気が利くんだから自信持ちなさい。ボーイハントよ♪」

もうこの人、言葉完全に通じないなと思いました。
言ってることの矛盾に気づく以前に

「おかーさんこないだこう言ったでしょ、この世の恥な私がボーイハントする資格ないでしょ、私はこの世の恥で、おかーさん死にたいくらい私の存在が恥なんでしょ??」

と、言うと

「誰がそんなこと言うっていうの??私はあなたの親よ??、娘の幸せは第一の願いよ?何言ってるの?あなたきちがいなの?きちがいの娘はいらないわ!?きちがいは病院に行きなさいよ!(行ってるっちゅーの。10年以上。あんたのせいだっちゅーの。)きちがいは今すぐ死ねば??死になさいよ、こんな娘いらないわ〜!あなたうちの子じゃないわ?誰なのあなた??」

(伏せ字抜きでお送りしました。)

こんな感じなので、私の家族には、まともに会話できる相手がいません。
父はド田舎出身から団塊の世代で、一応エリートなので財閥系に勤めて高収入だったはずなのですが、お金の配分のバランスを全く考えず。

幼少期から普通にお酒は全種類飲まされてました。
ビール、カクテル、焼酎、日本酒、ワイン、バーボン、ブランデー、ウイスキー。
etc.etc.
ワインまではなんとかいけるのですが、私は最近わかったけど蒸留酒が苦手。
飲んだ量と酔っ払うペースが全然違うから。

幼少期、父が家にいるときは、夕食時に、お茶、牛乳、ビール、焼酎、日本酒、ワイン赤白、ウイスキー、バーボン、ブランデー用のグラスがぞろぞろ並んでました。
もちろん子供なので、ご飯とお味噌汁、とんかつ1人5枚くらい(私は痩せてたので大量)、具沢山味噌汁もあります。
と、両手いっぱいの栄養剤。

病気にならないわけがない。

ステーキは2日に1度はありました。
ビーフだったりポークだったりするけど、痩せてた私はビーフの脂身を全員分集めて食べさせられてました。
脂身って、筋とセットだからね。
今なら飲み込むかもしれないけど、当時は全く無理でした。
トイレ〜。と言って席を外して大量のスジ肉をトイレに流してたのはバレてました。
食べきれないスジ肉を与えて悪かったな〜。ではなく、太らせようと与えたものを黙って吐き出すとは!
と、怒られました。


将来の夢を話すと

「お金かかるから、自分でお金稼ぐようになってから自分でやりなさい。」
(うち、当時でいう中の上くらいの経済状況はありました。)
と、潰され。
理系が全然わからなくなったので文系からの芸術系を選べば
「お父さんは理系だから理系に行って欲しかったのに。
「だって数学も科学も全然わかんないからお父さんに聞いても自分で勉強しろって一蹴するだけじゃん。自分で勉強してわかんないから聞いてるのにそんなんじゃもうどうやったって無理だもん。予備校行くお金出してください。」
「親に向かってどういうつもりで金を出せと言うんだ!何様のつもりだ!!」
「じゃあ大学行かない。」
「大学には行け。」
理系はもう全然無理。学校の授業追いつけないし、お父さんは教えてくれないし、予備校にも行かせてもらえないんじゃ。自力でやっても毎回違う答えが出て全部違うんだもん。自力には限界があるんだよ?お父さんは優秀だったからわかんないんだろうけど、そんなに理系に行って欲しいならもうちょっと協力してくれても良かったんじゃないの??ところでお父さん、現代文を奇跡みたいに理解してないよね。なんでわかんないの?公式とかないのに。日本語わかんないの?だから私が言ってることわかんないの??」

と、まあ、こんな感じだったんです。

親とまともに会話できる人が心底羨ましいです。


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2018/12/13

少年

何度も書いてる、Y君のこと。

私が小学校を転校して戻ってきたクラスにいた、近所に住む、文武両道のY君。

私が転校から帰ってきて初めて同じクラスになった。
ほどなく、誰かが、Y君はNamiちゃんのこと好きなんだよと言った。
なんでまた私なんか。

そこから何をどうしたらそういうことになったのか、私がY君を好きだということになり。
文武両道、私が知ってるY君は11歳くらいから15歳まで。

自己評価が低く、親にも

「今すぐ*ね、この穀潰し!!」

と、母に言われまくったり、男親には体を弄られまくってて嫌で嫌で暴れてたわたし。

「私はこの世に生きてる価値がない、消え去るべきできそこないなんだ。」

と、刷り込まれながら同時に

「Namiはそれなりに美人に育ったけどおっぱいが小さいからお父さんが揉んでやる。大きくなるはずだ。」

というアホ父に触られ続けて男嫌いになり、まだ小・中学生の時から週刊ポストとか(エロ写真とエロ記事だらけ)、表紙で女の人が薄着で悶えてる小説を読まされてきたわたくしです。

結婚する気がないのは、親による英才教育で、自分にはこの世に生きてる価値がなくて、お友達と一緒に食事に行ったり、お友達の家にお泊まりするのも

「うちの恥さらしになる!誰が行かせるか!今すぐ*したいほどのこの世の恥なのに!!こっちが*にたくなるわ!絶対許さん!!!!」

と、言われ続けたのを守ってるからでーす。
誰に顔を褒められたって、私のめんどくさい性格を知ったらどうせみんな去っていくから彼氏いらな〜い。

そんなわけで今後も子供を持つ機会もないでしょう。歳も歳だし。
子供は好きです。
けど、私には家族を持つ資格はない。
そう刷り込んだのは他ならぬ私の親です。

私の友人知人の子供たちの多くが、中学生以上になってきました。

環境や性格の違いはあるでしょうが、
「中学生男子ってこんなにママにべったりなの??」
と、驚くこともあります。
数ヶ月後には反抗期に入ってるかもしれないけどね。

何度も書いていますが、私の優しい思い出は、Y君のことばかり。
完全におばさんになった今思うと、Y君は少なからず私に興味があったのかもしれないな。
と考え始めました。

当時の私は静かに発狂を始めていて、精神科に入院したいと心底思い始めていました。
当時の精神科は今より差別的な扱いが強かったですし、田舎育ちの両親には、自分の娘が精神科に入院なんかしたら人生終わる。みたいな感じでした。

四面楚歌。
味方は誰もいない。

そんな毎日を、Y君の顔を見ることで乗り越えられた。

見てくれてたから。
私を。

声はかけなくても、ギリギリまで振り返って私を見ながら去って行ってたから。

今更分かってきたこと。
Y君の家族の中でも多分ゴタゴタがあった。
中学卒業と同時に私とはもう会えなくなることになった。
そして、第2ボタンを残していた。

当時は、そう思うのは私の思い上がりだ。と、思ってた。

けど、最近は。

15歳の少年。
想いと態度は、少女たちよりかなり単純でシンプルなはず。

「ひらきなおる」ことでショックをやり過ごすことにしたと書いた少年は。

40代半ばになった私には、なんていじらしい。

遠くに行く理由を誰にも話さず、「出会いと別れ」と開き直り、第2ボタンだけは誰にも渡さず、もしかしたら、もしかしたら私を待っていた。

それを、完全におばさん目線から考えると。

15歳の学ラン姿の彼を抱きしめて

「寂しい?寂しいよね。今日は男が泣いても許される日だから、泣いてしまえ!」
と、泣かせてしまいたい。

もしY君が一大決心をして私に何かを伝えても。

「いますぐ*ね」

と言われ続け殴られ続けてた私では、受け止められなかった。

私の命尽きる前に、会いたいよ。
もし今のY君の心のどこかにまだ私がいたら。

「尊敬してたよ。大好きだったんだよ。」

と、伝えたい。
いつかその日が来ると信じながら、今日を生きて、来年を想ってる。

15歳。

わたしたち、ずいぶん辛い想いを抱えて15歳を過ごしたんだね。
1秒でも早くY君と再会して、とにかく何を言うよりも先に抱きつきたい。
ず〜っと会えてなくても、Y君がいなかったらわたし、何も頑張らずさっさと消えていたよ。

どうしてこのネットの時代に、再会に届かないんだろう。
居場所はわかってる。
けど、そこに突撃なんかしたら警察に通報されちゃうからね。
自分の個人的な情報をSNSに何も出してないんだもの。

いつか。
いつの日か再会できた時。
誰が言ったか知らないけど本当か嘘か知らないけど、私のことを好きだったという幼かったY君が、40代半ばになった私を見て、同世代の他の女性より綺麗だと思ってもらえたら、いいなあ。

...と、いっても、舞台業界は裏方の人でも年齢不詳がちなので、頑張らなくても現在既に10歳は若く見られてるんですけども...
若く見られすぎて結構いろいろめんどくさいので最近は年齢を推測される場面になると自分から実年齢を言ってます。
同業者からは
「あ〜。そっち側か。だいぶ若く見えますね。」
というくらいの反応で済むのですが、一般の方からは態度を豹変されたり、あと、もうそういう状況に身を置かないようにしてるので最近はそれで悩むことはないのですが、女というものは本当にめんどくさいタイプが多くて。

「いい気になってる。むかつく。」

(いい気になるなんてそんなめんどくさい思考回路ないんだよ〜。ただ楽しく過ごしてるだけだよ〜。なんなんだよ〜。)

「媚びて贔屓されて、むかつく。」

(媚びるなんてそんなめんどくさいことしないよ〜。素の態度で接してたらなんか楽しんでもらえてるみたいだし自分も楽しいから普通にしてるだけなのにいちいち突っかかってくるなよ〜。楽しそうに見えるらしい会話の間にわたし相当毒吐いてるし〜。それで勝手に嫉妬してわけわからん喧嘩売ってくるなよ〜。売られた喧嘩は買うぞ?どうせ買ったほうが悪者にされるんだぜ、ああめんどくせ。)

ほんとに、こうなんです。
若く見られるって。

ネットでこういうこと書くと叩かれそうですけど、私はよく美人と言われてきました。
全然そうでもないんですけど...
地味顏ですし...

他人が言うのはお世辞だと完全スルーしてましたが、私の存在を完全否定する母。

「いますぐ*ねこの世の恥!!」

と、言葉の暴力と殴る蹴る。喘息発作などで何度も死にかけても

「あんたが救急車呼ばないでって言ったからご近所に迷惑かけたのよ!!」

という作り話を平気で吹聴する(そしてそれは母自身の信用を身近な方々から完全に消し去っていった原因であることに全く気づいてない。お気楽のようにも見えるけどあまりにも社会性に欠けた孤独で哀れな人。)

そんな母親が、私の顔だけは褒める。

面長、鷲鼻(魔女の鼻と言われたこともある)、広過ぎる額。小さな眼。
どこが美人じゃ。魔女の鼻なのに。
幼少期は地黒だった肌ですが、この業界に入って野外現場の仕事でない限りは暗闇に引きこもってるからか、幼少期に比べたらかなり色白になった顔。
(他の部位は日焼けはしなくても打撲と擦り傷切り傷が酷くて虐待でも受けてるみたいなのでもう生足はもちろん薄手のストッキングでもスカートはけない。)

こんな。
こんな。
11歳で出戻り転校してきた私のどこを、Y君は好きになったんだろか。
出戻りだったので転校前からの友達もたくさんいて、すぐに馴染んで、すぐに学級委員をさせられた、わけのわからない立場だった、わたし。
子供の頃は大人びた顔だったので、年齢相応の可愛さは全然なかった。
ただ、よく言えばハキハキ、別の言い方をすればズケズケものを言って、クラスを整列させるために、転校中に神戸で身につけた口の悪さで

「ゥオラ早く並べっつってんだろグズグズすんなホレホレホレ。さっさと行くぞついてこい。」

こんなかんじでしたのです。
ちなみにこの手法は中学校までは通用しましたが、県立女子校では、完全に無視する連中も数多く、すげーめんどくさかったです。

こんなに荒っぽい、時には誰かを無茶苦茶に傷つける言動をし、走ればビリ、運動会は地味に応援に専念。年がら年中学級委員長、時には生徒会に教師から無理やり立候補させられて超頑張って落選。
全校集会での何かの議題ですげームカつく内容があったので、意見を言いにマイクの前で喋ったら、早口すぎて聞き取れないので何言ってるのか全然わかりませんはい次!という扱いを受けた。
私の。
どこが。
よかったの???
ただの変人じゃないですか。

それでも。
家は超近所なのに、部活の朝練が関係なくなった(私は2年から帰宅部だったけど)3年生の時は登校時に2人だけですれ違う逆ルートで定時に。
帰りも、ときどき、すれ違ってた。
挨拶くらいすればいいのにね。
できなかったね。
15歳だもんね。
今の15歳よりシャイだったよね。
たぶん。

あれから30年が経とうとしている、私たちが1年間毎朝すれ違ってたあの場所。
今も私は毎日通る。
一応通っちゃいけない植え込み部分をくぐって出てきてたY君。
そっちのほうが近道だったからね。
それを横目で見ながら普通の道を迂回してたわたし。

ただ、それだけのこと。
ただ、それだけの優しい毎日。
今も、植え込みを抜けてくる学ランを着たY君の姿を幻に見る。

3年生の時だったかな。私は原因不明の白血球激増と黄疸で、通院のため、たしか火曜日はしばらく、毎週遅刻をしていた。
学校に行く時間より少し遅い時間に病院に向かうので、その時間を待ちながら、窓から、Y君が通るのを待って見ていた。
Y君は通り過ぎながら私の部屋を横目で見てくれてる。
と、思って幸せな気持ちで通院してた。
通院の日は、幸せな日だった。

検査と診察を終えて病院から学校へ直行すると、Y君のクラスは体育の授業のため移動で昇降口に大集合。
逆流して校舎に入る私。
Y君のクラスの明るい男子たちがときどき声をかけてくれる。
(当時、女子たちは体育館での授業だったので昇降口に来てなかった。)

某男子「あれ!?今来たの?」
「うん、病院に行ってきたの。最近毎週なんだ。」
某男子「そうなんだ、早く元気になれよな!俺たち今から体育!」
「うん、それはわかるw」
某男子「いってくるぜ〜!」
「おう!怪我しないようにね!」
某男子「あたぼーよ!!」

そんな明るい会話を、Y君は横目で見てた。
たぶん...?
今の言葉で言うとY君はツンデレなのだろうか。いや、それは思い上がりが過ぎるだろうか。
普通のシャイな15歳だったのかな。
心の底から、優しい気持ちでほっこり笑顔が浮かび、体は辛いけど学校は楽しいな。だってY君がいるし、愉快な子たちもいるし。
なにより、家に帰ったら私の人間性を完全否定する罵詈雑言と突然の殴る蹴る。私は当時
かなり痩せていたので太らせるために大量に食べさせられ、更に宗教的な栄養剤を毎食後両手いっぱい飲まされ(これが体調不良の原因でもあったっぽい)父には体を触られまくる地獄しかなかったから。

塾の話も前に書きました。
Y君とはレベルは同じなんだけど違う曜日のクラスに通ってました。
ときどき都合でY君の曜日に行ったら、勉強した記憶がない。
(教室が違っても)
そして苦手だった数学の立方体とかの問題が全くわからず、とりあえず高校には行けたけど結局数学からは脱落。

あはは。

中学生の私に、生きよう。明日はY君に会える。
そうやって明日を生きる楽しみをもらって生き抜いた。

15歳で離れ離れになって。
いつか会える。
きっといつか会える。
と、願っても、成人式にも、某SNSで再会した母校の集まりにもなにもかもに、Y君は来たことがない。

会いたい。
会いたい。

少年はもうおじさんになってるでしょう...
私もすっかりおばさんです。
けど、再会できたら、15歳の時に、ほんの少しの間でいいから戻りたい。

15歳の少年の思い出を糧に生きてる40代のおばさん。
みっともないね...

けど。
本当のことだから。

遠くに行くことになった時、人知れず泣きましたか?
お友達と進路の話になったとき、Y君は誰にも何も言わなかったと、近しいと思われる同級生たちに聞きました。
だから、誰もY君の現在を知らないようです。

誰にも言わない決意の理由は...?
私自身も15歳の頃は理解できない、認めたくない現実ばかりでしたが。

今はもう。

15歳の少年が、ショックと悲しさと寂しさを紛らわせるためにとった手段が
「沈黙」
だったのだと、想像できます。

第2ボタンだけ残ってる。と、大勢の人が気づくようにしていたのは何故?
別に何を考えてたでもなく、第2ボタンをあげたい人って誰だろな〜。
と、ぼんやりしてただけかもしれない。
15歳だもの。

15歳。
子供です。
今となっては、いじらしい。
あいくるしい。
優しい、文武両道で、悲しみと寂しさをを1人で背負いながら一人ぼっちで進学した。
少年。

会いたい。


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2018/11/16

ガテン系フリーランサーがワークライフバランスを確保する方法。

タイトルの

【ガテン系フリーランサーがワークライフバランスを確保する方法】

が、あったら教えて欲しい。

古い考え方でいうと、フリーランスの男性が、妻子を養うためにライフの充実を削って働きまくる感じでしょうか。
私の父はサラリーマンでした。転勤族で、飲み会が大好きで、出張しまくってて家にいない。単身赴任して家にいない。飲み会でまともな時間に帰ってこない。
転校させられても細かいケアをしてもらえないまま方言も学習の進度も違う学校に突っ込まれただけで、酷くいじめられてたのに親は無関心。
私が中高生になった頃、一緒に住んでる時間が増えたけど

「Namiのおっぱいはえぐれてるなあ」

と、揉んでくる。
こんな親いらない。と本気で思った。
なんでもないときに、なんか知らんが手を握ってくる。
モミモミしながら握ってくる。
ひたすらキモい。
激しく振り払うことを何度しても、止めてくれなかった。
小学生くらいならいざ知らず、中高生のえぐれたおっぱい揉んでくる父は気持ち悪すぎて何度も家出を考えた。
更に、母がたぶん早すぎる更年期障害だったんだと思うんだけど、お風呂に一緒に入りたがってすっげーうるさかったり、買い物に延々と連れまわされたり(私が欲しいものは絶対に何も買ってくれない。ただ連れ回すだけ。そして勝手に迷子になって、私と妹が迷子の呼び出しをされる。)かと思えばなんだか知らんが突然部屋に乗り込んできて罵詈雑言。

「この世の恥!!誰に食わせてもらってると思ってるんだ。家賃払え!食費払え!」

と、殴られる。
そんなこと言われたらバイトするしかないんだけど

「あんたみたいな家の恥を他所様に出せません!」

と、拘束。
友人宅へのお泊まりも、学校帰りのお友達とのファストフードとかうどんとかの外食も全部禁止。
ま、お小遣いも私が行ってた県立高校生の平均を大きく下回っていて、更にバイトもできなくてお金が全くないから行けないんですけどね。

私たち姉妹は母に料理を教わったことがありません。
台所は母の聖域で(隠れてタバコ吸ってた)洗い物以外立ち入らせませんでした。
中学校と高校の時はお弁当だったんだけど母が朝起きないので、冷蔵庫のありものを詰めたり卵焼き焼いたりしてると、突然起きてきた母に

「誰が台所使っていいって言った!!何様のつもりだ!!!」

と罵倒され。
タバコ隠してるの知られたくなかったからだとは思うのですがとっくにバレバレだったし、母親がする言動ではないよね。
朝から罵詈雑言受けながら台所から追い出され、玄関先に投げ飛ばすように出されたお弁当なんか食べたくもないので持って行かず、なけなしのお小遣いを削ってコンビニや購買ですませてた。

そんな私なので、ライフレベルをどこに位置づければいいのかわからないんです。
私には家族親族がいますが、甘えられる人は1人もいません。
親族の住まいは遠く、従兄姉たちも年齢が離れてるしとにかく住まいが遠く、会いに行く交通費もなく、当時は当然メールとかないから誰も頼れず。

私には幸せな家族像の夢がないんです。
この世に生まれてきたことを、この世に生んだ本人に全否定されて育ったものですから。

だから、誰に好かれても、私のような「人間のクズ」(親に言われた言葉です)は誰かと家族になる資格なんてないのだと、中学生の頃には確実に思っていました。
中学生の時に好きだったY君に素直にサヨナラを言えなかったのも、大学の時に見た目も考え方も好きだった先輩が中退すると電話をくれた時「時間のある時に会いたいです。」と言えなかったのも、自己評価が低すぎて、誰かと一緒に生きていく資格はないと思っていたからです。

今思うと本当に悲しいことでした。

「人間のクズ」と言われて育ちながらも、小学生時から私はずっと学級委員でした。
勝手に決められたのがほとんどですが、立候補がないと永遠に沈黙のホームルームが続くのが嫌で暴れたくなるので身を挺して立候補したことの方が多いかも...。

高校になったらそれはそれでめんどくさく。
いちど、クラスの推薦で会長(学級委員のことをクラス会長と呼んでいた)にされましたが、ま〜、女子ってめんどくさい。
私の声が聞こえているのは明らかなのに無視する連中の多いこと多いこと。
おまえらはクラスの統率を乱す厄介者として学年じゅうに認識されるがいい!!
あいつらが時間通りにこないのは私のせいじゃない。
指示を聞いてるのにこない、あいつらの意思だ!
と、ほっとくことにしました。
小中学生の時はワーワー言ってまとめてました。
幼いって、可愛いですね。

とかなんとかそうやって生きてきて。
ワークライフバランス、といっても、私のバランスにライフは非常に弱いのです。
親のことは愛してない。
妹は嫁いだ身。
親族は距離も心も遠く。
だから、家族との時間、という意味のライフバランスは、今の私には皆無なのです。

だから、ワークが重くなっている夏からの忙しさは、私にとって悪いことはないのです。

暇な日が続くと。
私は夢の中でY君に会うことばかり願って、薬を飲んで閉じこもりがちです。
最近のように忙しいと。
それどころではないのです。

「3時間半寝る。薬はどうしようか。とっとと起きねばだからユーロジンはやめとこ。」

こんな日々を送っていると、Y君のことを想う時間がなく。

私は子育て失敗作です。
劣悪な環境に育ちながらも、グレずに大人になった。
医者も言うように「自分で自分を育てた」。奇跡的な例。
それは、単に私がとんでもないバカだったのか、根本的にとてつもない楽天家で、ウジウジするのがめんどくさいから外面は笑い飛ばすようになった(たぶん20歳後半からだろな)からか、変な大学に行ったおかげで様々な性格の友人たちに出会い、今でもオリジナリティ溢れる生き方をしている友人たちを見て

「私も私の身幅で生きればいいんだ、そうだそうだ。」

と思い。

なら、私のワークライフバランスは、全然参考にならないですね。

親族はたくさんいるし、親兄弟も健在だけど。
ミドルフォーティー。子ナシ独身。
彼氏なし。
全く寂しくありません。
老後のことは、年金があてにならない分、着付け教室に通うことに投資して、おばあちゃんになっても働ける道を模索しているわけであります。
仕事してればそこには、尊敬する人や、楽しい人がいますから。

実際、相当楽天家なんだと思います。
今日も仕事中ちょいちょい怪我したり頭を何度も鉄骨にぶつけたりしましたが。
「縫うほど切れてなくてよかった。」
「脳震とう起こさなくてよかった。」
「何も落とさなかった。はぁ〜よかった。」

20年以上、派遣OLとの兼業時期も多くありましたがこの仕事を続けてきて、自分を頼ってくれる人、自分が信頼できる方々がようやく固まってきた雰囲気。

私には、ワークがライフなのかも。
そして、ライフの中のたとえば私でいうと今年始めた着付けのお稽古や、仕事仲間とのおしゃべり。それに影響されて見聞きしてみたあれこれ。
その発端はワークです。

こういう人も、いるんです。

ひとりごと、でした。


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2018/10/09

フリーランスの労働環境改善

たいして仕事できる方じゃない私がなぜか働きづめの今日この頃です。

たくさんの雇用主がいて、とりあえず日程と、概要はできれば聞いてから受注します。

(雇う方も何する現場なのかよくわからないんだけどオペレーターが必要だからと、とりあえず確保の発注されて行く、ってのも多いです。)

直前になって。
雇用主が全部違うのに、何かの縁だか運だかで、一週間以上どれもこれも移動距離と拘束時間ががすごいことになってしまい、

週40時間労働なんて、2日で使い切ります。

「労働基準法って何ですか」の業界ではあるのですが。

それにしても。

ここ4日ほどの現場が全部遠方で、入り時間が始発でギリ間に合う時間。
帰りは終電で、次の日また始発に乗らねばならない。

死ねます。

スケジュールとか移動時間とかを確認したら、ここ5日ほどで私史上最大の過酷なスケジュールになってしまいました。
死にたくないので、4日間分の現場に、自宅からよりも楽になるところに3泊してきました。
ギャラの3割ほどが宿泊費に消えました。

はぁ〜。。。

火曜日から暫くスーツでお仕事です。

気が遠くなりすぎて、私史上最大の忘れ物をしたり。。。

それについては後日書きます。

なんというブラック企業なんでしょか。

とはいえ。

社員数アタシだけ。のフリーランスでございます。

自己責任であります。。。

やっぱり忙しすぎると人間、壊れますな。。。
忙しさに気が遠くなって、ボーッとしすぎちゃってとんでもない大騒ぎをした話はまた今度しますね。

最近どーして私はこんなに仕事が増えてしまったんだろう。
占いに詳しい先生によると、今年の私は切るべき相とは縁を切り、で、そしたら新しい出会いが激増。
なのだそうです。
縁を切るのが昨年でも来年でもよくないそうです。


私はもともと仕事ができる方ではありません。


それが何故こうなったんだ???



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2018/10/02

雑談と、プロの葛藤。

私の仕事は、舞台の裏方です。
そっち系の学校で学び、そっち系の会社に就職し、転職し。
会社に所属していたのは実質6年くらいです。

職場でのストレスと、肉親との不和が爆発して、もともと幼少期から精神科マターな問題を抱えている自覚はあったのですが、私の幼少期。親は団塊の世代。
わたし精神病院に入院したい。
と、小中学校時代ず〜っと思ってました。
なんなら高校時代も。

でも、財閥系企業でエリートコースを進んでいる夫婦の娘が

『精神病院の患者』

ってなったら、嫌だったんでしょうね〜。
私が明らかに発狂したのが27歳くらい。
会社というかお国の行政直下の法人に就職したことはいろんな人が喜びましたが、ろくでもない大人ばかりで、且つ、実家では母が安定のメチャクチャ。

10年以上前のことですが、なんでも、母が自転車で車と接触したそうで。
車の相手が、ぶつけられた母に

「保険入ってないから警察に届けないで〜。示談で許して〜。でもお金ないの〜。」

と、言ったそうで。
その要求を呑んだそうです。
その連絡をどこかから聞いて私が

「アホ〜!!警察行け〜!病院行け〜!何バカな甘ったれに譲歩してるんだ。警察も病院も付き添うから今引くな〜!!!病院行かねえとか言いながらいちいち痛い痛い言うな、バカか!!」

と、言ったら母は

「バカだもん!!私いいんだもん。誰にも大事にされない人生なんだもん。バカにされる人生だもん。生きてる価値ないんだもん。病院なんか行かないんだもん。この世に私なんかいらないんだもん。このまま誰にも迷惑かけずに死ぬんだもん。ほっといて!!(号泣)」

おいおいこらこら、既にとんでもない迷惑かけてるよ〜。
うぜ〜。
うぜ〜〜。
死にたくなるほどうぜ〜〜〜!!!

『誰にも大事にされない人生なんだもん。』

とか言う人ほど酷い構ってちゃんなんですよ。

あーーーー
めんどくさ。
そして、私の心配や気遣いを全否定したわけです母は。

そして私は父に

「あんた何やってんの。夫でしょうが。やることやんなさいよ。怪我して凹んで「イヤイヤおばさん」になっちゃったのはともかく、引きずってでも病院に連れて行くのが夫じゃないの?なんなの?あなた何者なの??バカなの??」

と、言いましたが

「お母さんはお父さんの言うことを全く聞いてくれないので諦めてます。Namiも諦めてください。」

ぷっち〜〜〜ん。

ここで20代だった私の精神は完全崩壊。
からの〜
投薬治療と、高額なカウンセリングを経て十数年。

割愛して〜...



専業フリーランスになって、6年かな。7年かな。
テレビの仕事もちょっとやってます。
裏方ですよ。
もともと後輩の仕事なんだけど、基本的にサブで入ってます。
テレビ収録ってスケジュールが突然すぎて困ります。
収録場所と、こちらが用意する仕込みは毎回同じなので、こちらとしては楽なんだけど。

先日、ちょっと、いや、だいぶイレギュラーなことが起きました。

私が普段関わってる方々は、舞台やイベントの方なので一般の皆さんはご存知ないと思うのですが、その案件に関しては、テレビなので。。。
しばしばご覧になってると思います。

で、番組制作会社内でもいろいろあるらしく。。。
別部署が、ドラマ録るからということで、私どものレギュラー収録現場にいきなり乗り込んでくるという...
細かいことは書いてもわからないと思うのではしょります。

普段私たちが関わってる収録のトップの方が、別部門の方からの無茶振りに振り回されたっぽく...
ドラマ収録チームの態度がね...
舞台側の人間には、ありえないんです。
いろいろ、いろいろ。

ドラマチームとしては通常営業なのかもしれませんが、2ヶ月に1回ほどお会いするこちらサイドの収録のプロデューサーさんが平身低頭。
普段から腰は低いのですが。
今回私が行けなかった日は明確にブチ切れたそうで。

私なぞ常連ではあれど下っ端の下っ端なわけですが、顔と名前はしっかり覚えていただいていました。

プロデューサーさんは、テレビの特番なんかではスタッフさんとして名前テロップ入りでインタビューとかされてる大御所さんです。
その方が、会社のしがらみと、別部署の無茶苦茶っぷりに怒りまくったり頭下げまくったりとな...。

終わったら

「あ〜!!!バラすぞ〜!!とぅいやっ!!!」

もうヤケクソにしか見えませんでした...。
あれほどの方でも、会社のしがらみに振り回されて、それに伴ってあっちこっち振り回さざるを得なくなってムギャ〜!

「全責任は僕が取ります!!本当にスミマセン!!」

って、なっちゃうんだなぁ〜。
あんな状況には追い込まれたくないけど、本当のプロってのはああやって、人間力を駆使してやりきるんだなぁ〜。
と、思いました。

私がオペラ仕事を全部キャンセルしたのは、フリーランスだからこそできたことです。
会社で受けてたら無理です...。

40代半ば。
人のお仕事っぷりを見て、学ぶべきところがたくさんありました。

わたし、舞台の人になってホントによかったです...。


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2018/09/30

雨女になっちゃったみたい。と、雑談。

今年は何故か野外現場を多く受けてしまいました。

ハイパワー晴れ女だったはずのわたくし、パワーを使い尽くしたようです。

今年の野外現場、ことごとく雨でした...。

できるところまでやってとりあえず今日は終わり〜。
とか、
不本意ながら今回は屋内での開催にしましょう。
とか、
クライアントに見せないといけないから。と、ずーっと雨の中、待避所はトラックの荷台で、終電まで雨に打たれて作業したり。
この時期になって虫除けスプレーを必死に探して挑んだ野外現場があっけなく屋内開催になったり。

うむむ。
なかなか辛かった夏もそろそろ終わり。
秋に向けて。
海外公演の同行は見送りになり。
そこへガシガシ入ってくる仮押さえ。

今年の私はなんなんでしょうか。
全体的に催事が多いのでしょうか。
技術者の数が減っているのでしょうか。
たまたま私にご縁が増えたのでしょうか。

先日はちょっとしんどかったけど、とても興味のあるイベントで、客席後方で立ちっぱなしだけど良い古典作品を観ることができました。
すごかったなぁ〜。


私は幼少期から、引越しとか転校とかが多かったのもあるだろうけど、ほぼずっと学級委員とかで単独行動させられて育ちました。
やりたくないのに、いつのまにかなってるのよ〜。
中学校とか高校になると、内申点稼ぎで、そういうタイプじゃなかったはずなのに唐突に生徒会に立候補して就任したはいいけどな〜んにもしない連中がいたので、少しは免れましたが。ずいぶん尻拭いさせられたけどね〜。
何故私なんだ。めんどくせー。立候補したなら自分でやれー。

私がやってる仕事は「みんなと一緒」という意識だと全然無理です。
課せられた任務を遂行するためにあらゆる手段を使います。

私も20代の頃なんか特に、いろいろいじめられましたよ〜。
離れていった元友人もいますよ〜。

ひとりひとり考え方も立場も違うから、自分の意思で考えて行動する。
こういう私にとっては極々あたりまえのことで怒りを買い、私と口をきかなくなった人はたくさんいます。
めんどくせー。

今年は自分の仕事がちょいちょいありました。

ひとつは、主催者が夢見すぎてて話が全く通じなくなって無茶苦茶なので本番10日前に全部辞退。それでも観に行ったうちの両親は舞台とか音楽とか全然わからないんだけど、まあ満足したらしい。
状況聞いたりSNSとかで探すと案の定呆れるほどの無茶苦茶な内容になったと思われるんだけど、

「やっぱり無茶苦茶だったか〜」

とぼやきまくる私に母がキレて

「素人でもいいものはいいのよ!!それは認めなきゃダメよ!」

と言い張り(母はそういう人です)

「よくない!どれもこれもプロが乗り打ちでやることじゃない!あのまま関わってたら恥しかないわ。」

「素人でもいいものはよかったのよ!!」

「私はプロの仕事をしたかったんです!結果的にド素人のしっちゃかめっちゃかだったんじゃ、断って正解だったわ。」

「素人をバカにしてるの!?」

「本人はプロのつもりでも実質素人以下なんだもん。それで私に無茶苦茶な喧嘩売ってくるんだから手のつけようがありません〜。素人仕事でいいなら私を呼ぶ必要ありません〜。」

「素人でもいいものは作るのよ!あんた何様のつもりなの!?」

「プロでーす。」

このへんで父が慌てて

「Namiあんたもう帰りなさい!」
(カニ食べに来いと呼んだのはあなたです〜。)

私は売られた喧嘩はもれなく買いますので、昔から、ちょっとおかしい母の偏執的な考え方に真っ向勝負すると

「あんたキチガイ?精神病院行きなさいよ、キチガイよ。」

「はい、あなたの娘はキチガイなので精神病院に15年以上通ってます。薬もいろいろ飲んでます。原因はあなたです。」

「あんた何様のつもりなの??」

「Namiさまで〜す。」

「今すぐ入院しなさい、キチガイは。このキチガイ!!!恥さらし!!死ねば!?」

「入院すべきはあなたでーす。主治医が言ってまーす。精神科の診察受けなさーい。」

ここらへんで父が

「わ〜、もうNami帰りなさい!!」
「だからもうここには来たくないって言ってるのに。」
「今日はとにかくか・え・り・な・さ・い!!!」

本当は実家とは縁を切りたいんだけど、父が人たらしというか人好きで、とかなんとかいろいろあるんでしょうけれども非常に異常にしぶといので、情に負けてたまに顔を出すとイカレテル母と私が大げんかする。の、繰り返しです。
うんざりです。

こういう状態で。
父が母より先に死んだら、母には社会性が全然ないので諸々の手続きができないことを見越して、父はエンディングノート作成と終活を進めています。
どこぞにしまってあるファイルを見たら、父の逝去を連絡して欲しい人のリストとか、金融機関などなど手続きが必要なこと全般をまとめてあるそうです。
父方はガン家系で、父自身にもガンが見つかって、放射線治療やホルモン治療をしながら70過ぎてるのに仕事もしながら旅行とか行きまくってとにかくじっとしてない人です。



母の引きこもりっぷりは、私には全然理解できません。
趣味はたくさん持ってるので、カルチャースクールとかに行ってお友達作ればいいのに。
と思うんだけど

「気の合わない人に会うの嫌だからそういうところには行かないの。」

(気が合うか合わないかは会ってみないとわからないと思うけど、会ってないうちにそう決めつけるのは、誰かからリスペクトを受けようという気持ちが全然なくて、自分の考え方に全面的に同意してくれる人としかお友達にならない。ということなのかなと最近思ってる。けど私には全然理解不能。)

100人と知り合ったら、そのうち3人か5人くらいは、せめて習い事の時くらい楽しく過ごせるお友達が見つかると思うんだけども。

幼少期から転校などでお友達との出会いと別れを強制させられて、近所に親族が全くいないまま育った私と、田舎生まれ田舎育ち、転勤族にお嫁に来ちゃって知らない土地でひきこもり育児しかすることがなかった母では、まさに生きてきた『土壌』が、違うのかな。と最近思います。

私は、無礼な人や図々しい人やデリカシーのない人などなどには正面切って対応します。
売られた口喧嘩は絶対負けません。
こういう性格を
「態度がはっきりしてる」
と言う人もいますが、
「空気読まない変人」
と言う人もいます。本当に言われました。

全然別の話ですが、私はムーミンのミーが好きで、バッグのファスナーにマスコット人形つけてた時。
当時派遣OLとして働いてた、登録のタイミングでは後輩にあたる人が

「ふ〜ん。ミーみたいに根性ねじ曲がってるところあなたそのものね。」

と言ってきたことがあります。
は?
この人私のことをそう思ってるんだ。
根性ねじ曲がってる???
いや、嘘がつけないから直球発言をしちゃってる自覚はあるけど、根性ねじ曲がって??はぁ??
もうこの人に関わるのは最小限にしよーっと。

と、いうことがありました。

なんかもうタイトルと全然違う話だし、かといって別タイトルも浮かばないので今回はここまでにします。

高村光太郎は書きました。

僕の前にはない 僕の後ろに道は出来る

(続きはオリジナルを読んでください。『道程』、1914年。)


   ←Amazonに飛びます。Kindle版です。
『道程』 高村光太郎


未来は自分で切り開く。
今年の私はまさにそのタイミングです。
不快に思っていた関係を絶つことによって、良い関係との出会いがある。
それはただの占いではなく、自分の力で生きて行きたいならば、動かなくては。
今年はそれを思い知らされています。
今年もあと4分の1を残すのみ。
なんてこった〜!!

あと3ヶ月、突っ走るぞっ!!!

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