2019/08/05

虐待児だった私が楽天家なフリーランスになったのは何故なのかしら〜。

自分語りが続いております。

分かってくれてる人は、今でも通ってる精神科の先生と、ぐちゃぐちゃだった時にお世話になったカウンセリングの先生。このお二人だけだと思います。

虐待児は、私以外とは接したことがほぼないんですけども。
破滅的な人生を送ってしまう方が多いのではないでしょうか。

私はそれなりに優等生でした。
幼い頃は。
もはや見る影もなく。

小学生時代はまあ普通に。
給食の時間と体育が嫌いで、出戻り転校した時の6年生の時の担任がクレイジーで、売られた理不尽にできる限りの反撃をしていました。
中学生の時は、たぶん両親からのストレスで壊れかけてて、喘息に加えて原因不明の病気(白血球が激増してるんだけど白血病ではなく、内臓疾患でもなかったらしい。医者と看護師が精神科の受診を勧めたらしいけど、例によって「うちの娘がキチガイ病院なんて!!今すぐ死ねば?この世の恥めが!!!」的な扱いを受けて放置されました。はい、通常営業で殴られてます。)。

口が悪いのと、大人にとって都合の悪い「素直」すぎて

「あんたキチガイ???」

とも担任に言われてました。
母からはずっと言われてました。

私は悪いことを言った気は全くないので、シレッとしてます。

家が嫌すぎて、何度も家出を考えましたが、当時は喘息が酷すぎてすぐ死にそうなのでどうしようかしらと思ってました。
親族はほぼほぼ九州にいるので、交通費がないよ。
ヒッチハイク探してる間に補導されるでしょ。
どうしましょ。
それに、家出して、捕まって、家に帰されたらもっと酷い目にあう...。

高校の時はなんとかやり過ごして...
大学に入って親から逃げて...
人間関係の作り方がわからずシクハクして...

んでね。
それ以前に、たぶん、辛すぎる日々を乗り越えるべく「よかった探し」をする性格になってたみたいです。

先生に怒られたけど、みんなが楽しかったならよかった。

失敗しちゃったけど、次回の教訓になるからよかった。

誰かに嫌われちゃったけど、なんで嫌われたのか全然わからないけど、変ないじめは受けてないから、いっか。

みたいな。

なんでもかんでもネガティブに捉えたり、うまくいかなかった人間関係から速攻逃げてたりなんかしたら、な〜んもできない。

それで、なーんもできない状況に自分を陥れて、他者を受け止める心が一切ないうちの母は、もう無理です。

私は「組織」が苦手なのでフリーランスをやっていますが、フリーランスは多種多様な人と関わらなくてはなりません。
そして私の本業は、時に、クライアントの脳内イメージをキャッチした瞬間にそれを再現できないと文句言われます。

会話だって、とりあえず聞いてるふりして相打ちしてればいい人と、うんちくが長すぎる人と、無茶振りが酷すぎてたまにツッコミ入れてみるけど全く功を奏さない人、などなどいろんなタイプがいます。
どんなタイプなのかというのは話してみないとわかりません。

雇い主がしっちゃかめっちゃかすぎて、業界常識を完全無視して暴走するおじーさんとか、仕事が雑すぎる方とお仕事するのはもうやめようと思った今年度です。

んで本題。
私は、人間としての基本的マナーとか態度とか片付けのコツとか料理とかなんだかんだを親からは一切教えてもらえず、アルバイトも完全禁止され(学校が禁止してたのもあるけど、うちの親は、私のようなこの世の恥は他所様に見せると自分が恥かくという理由で籠の鳥以下のほぼ座敷牢で生きてきました)完全に籠の鳥でした。
それも、むっちゃ狭い籠ね。

私は27歳くらいの時から精神科の患者です。
私のようなタイプの虐待児は、、もう相当ヤバいらしいのです。
けどね、2人の医者も不思議がっていますが、私は何故かグレなかったんです。

なんなんでしょね。
対人的に、ムカつく事言う輩にはビシバシ言い返しまして、それを悪とする人もいるようですが、私は
「この程度で傷ついてって、どないすんねん。」
という姿勢が増えてきました。

それはね。
私が楽天家だからなんだと思います。
なんで楽天家になったかというと。
実の両親が思考も行動も融通が利かない人で、視野が狭く、とてつもなくつまらない人たちなので。
もう親に何かを愛うことは完全に諦めて、誰かの信用をひとつづつ、増やしていって、私の現在があります。
新しい出会いは楽しい。
けど、自分の得にならない(技術も金銭面も合わせた意味の「得」)関係は、ばしばし切っています。

そうしていくことによって、

「なんとかなるさ!」

な性格が構築されたんだと思います。

カウンセリングの医師に言われたこと。

「現実が辛すぎるから、演劇という架空の時間を自然に求めていったのかもしれないね。」

ああ〜
それだぁ。

どこかの会社に入ることは可能ではありますが、会社というコミュニティに縛られたら、やりたいこと、できない。

辛い仕事が待ち受けていて気持ちがダダ下がりの日、みなさんはどう過ごしますか?


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2019/08/04

家族愛を知らない私。少年の心を今、想う。

今日もまたY君の話を書きます。

...と言いつつ別の話から始めます。

高校野球のお兄さん達の年齢を超えて、20代の頃は、高校球児のことをまだ「お兄さん」と思っていました。
監督やチームの仲間達、練習をサポートする親御さん達、応援する吹奏楽部や応援団。
大勢の方々に支えられて甲子園にやってきた球児たち。

試合を生で見たことはないです。
近隣の高校が割と甲子園常連校なのですが、壮行会はまだしも(って見てないけど)あとちょっとのところで負けて帰ってきたとき、ショッピングモール前の広場で報告会が行われます。

まー、選手たち、泣いてます。
ベンチチームも泣いてます。

それを、私が20代の頃は、彼らは私より若いけど、心の強さは私以上だと思っていました。

それが、いつからでしょうか。

時々テレビで地区予選を見て、勝ち残れそうにないチームも全力で挑んでいる姿が、かわいいなあ。
と思えるようになってきました。
アナウンスで、選手の性格や背景を話したりしますよね。
それが、まだ未熟だけれどもその選手の存在をがっしりと認めている感じが。
まだ10代の青年たちなんだなあ。
悔しかったら泣くんだなあ。

って。

私は女子高だったので、そういう男子高校生をまぢかで見たことはありません。
もし私が共学の生徒だったとしても、たぶん彼らをとても俯瞰的に見ていて、勝ってこようが負けてこようがスルーしてたと思います。
自分自身が同世代だったらね。
めんどくせー男。
と、思ってたんじゃないかしら。

高校球児たちが、私が子供を産んでたらとっくにそれくらいの年齢の子供がいるであろう、このようなおばちゃんになったら、そのあたりがすっかり変わりました。

強気に勝負に出るのもかわいい。
悔しくて泣いちゃうのもかわいい。
迷って動いた結果の是非に悩む表情もかわいい。

...完全に、おばちゃん目線ですな。

そのくらい、高校球児たちを、お兄さんではなく、まだ心も体も揺れている子供たちだと感じるようになりました。

かわいいねえ。
悔しければ泣いてしまえ。
そして余計なお世話かもしれないけど、マネージャーとか、応援の吹奏楽の生徒や、チアガールの生徒たちの誰かを、高校球児たちの誰かが好きだったら。
好きな誰かがわざわざ甲子園まで来て、灼熱の空の下、試合を細かく見てスコアをつけている姿や、吹奏楽部は灼熱の空の下楽器が火傷しそうに熱くなってチューニングがわけわからなくなってるというのに延々と演奏をし続けて。
チアガールなんて、先入観ですが、おめあての選手がいるからやってるんじゃないでしょか。
実は選手の誰かの彼女だったりして。
ないことないでしょ??

私はそういう恋って全くわからないけど。
ないことないんでしょ??

少しずつ、思い出してきたのです。
小学校を転校して、2年ちょっとで戻ってきたわたし。
戻ってきたクラスにいたY君。
近所なんだけど、Y君は子供会に入ってなかったのもあって、というかたぶんいろいろ習い事してて、クラスも違ったので、私が転校から戻ってきてはじめて接触したY君。
私は出戻り転校生だったので、7割ほどの同期生は記憶にあったんだけど、Y君はよくわからない子でした。
英才教育受けてるっぽいけど、見た目はみんなより幼い印象の。

まあたぶんみんな転校生は珍しいですよね。
私は出戻りなので、転校前からの友人たちが構ってくれて、転校生だっつーのに気がついたら学級委員にされてたり...。

戻ってきた環境で、誰が同じクラスで?
誰が転校しちゃったの?
誰それちゃんは何組なの?
そんなワチャワチャをしてるときに、転校前から私を知ってた男の子たちもいろいろ話しかけてくれて。

話は飛びますが、私はとても蚊に刺されやすくて。
刺されたらものすごく腫れて数日ひかないタイプ。

何かのときにまた蚊に刺されて。

「やられた〜!!かゆいよ〜。」
と、とりあえず腫れにバッテンつけたりしてるときに

「キンカン塗ればすぐ治るよ!!」

...と言ったのはY君だと思うんです。
うちは虫刺されにはウナかムヒだったので
「キンカン??」

と、驚いたものです。
すさまじくどーでもいいことです、はい...。
ただ、出戻り転校して、私のことを前から知ってる友人たちはともかく、Y君は転校前の私とは関わってないと思うんだけど、よくキャンキャン言ってるな〜と思ってました。
Y君、当時も、文武両道だったと思うのですがなにしろ小柄の坊ちゃん刈りで。

出戻ってきた私は中学生になっても問題児でした。
変に賢かったのと(当時に限る)、育った環境故。
口がとても悪く。

前にも書いたことがあると思いますが。
今だとプリクラ帳とかなのかなあ。
わかんないけど、私の頃は小学校を卒業する時「サイン帳」に何かを書いてもらうのが流行っていました。
A6サイズくらいの2つ穴バインダーに、名前とか、好きな食べ物とか、趣味とか、なんかそういうプロフィール的なものを書くフォーマットがあるやつで、それにいろいろ書いてもらってマイアルバムにするんです。
サンリオショップとかの雑貨屋さんで売ってました。
ほぼ女子に流行ったことですけどね。

フットワークの軽い男子は、ささーっと書いてくれて、気の利く連中は適当に写真探してきて(当時はチェキもないので、写ルンですで撮ったけどいらない、自分が写った写真を切り抜くとかが多かったのかな)すぐくれたんですけど、Y君はいつまで経ってもくれなくて。
私も結構しつこい女子だったので、小学校の卒業式くらいまで
「サイン帳ちょうだい!!」

と、言い続けてたのですが、Y君はニヒルに笑って(坊ちゃん刈りの小柄君だけど)スルーされてました。

なんか当時から私がY君のことを好きだということになっていたらしいのですが、文武両道で尊敬はしてたけど、なんにも言ってないし、そこらへんは未だに謎です。

そしてこれも以前書きましたが、中学校に入って私とY君は全然違うクラスになりました。
だけど、お昼のお掃除の時間の担当エリアが隣になりました。
たぶん、エリアを1人で任せてもちゃんとやるタイプが、1人1エリアを与えられ、集団でないと動けないタイプが教室内とかでチーム組んでやる担当になったんだと思います。

わ〜。Y君の隣が私の担当エリアなの??
なんでまた。
と思いつつ、サイン帳コンプリートを目指したかった私はお掃除場所の担当になって3回目くらいのお掃除の時間にY君に

「サイン帳書いたのちょうだい!」

と、言ったのですが、何も言わずにニヒルに笑うだけなので、もう諦めました。
もう、いいや。
無視してるんじゃなくて薄笑いでごまかしてるわけだから、くれる気ないんだろな。
もう、いいや。

それからは、お掃除の時間に会っても、何も言わないことにしました。
だってY君がだんまり続けるんですもの。
ばかばかしくなって。

ある時、私のいるクラスのお掃除エリアでささいなことがあって教室に戻るのがY君たちより遅くなった時。
Y君、自分の担当エリアで集めたゴミを円錐状にして、私の担当エリアに、とてもきれ〜〜〜いに積み上げてくれていました。

おい。

...。

その時は戸惑いしかなかったんですけど、もはやあの年齢の子供がいない方がレアなおばさんになったら。

Y君なりの「構ってアピール」だったのかな。

と、思うようになりました。

あのゴミどうしたんだっけな。

「おいこらあいつめ。優等生っぽいクセに悪さしやがって。」

と思いながらちりとりで回収して捨てたんだったかな。

青春ドラマ的には

「も〜Yくんっ!自分とこのゴミ、私のところに寄せて帰ったでしょう!なんでよっ!自分のところのゴミは自分で片付けてよね!ぷんすか!!」

が定石なのでしょうけど、13歳か14歳のY君に言ったところではぐらかされるだけだろうから無視しちゃいました。

Y君はどうして私に構ったんだろう。

私は口が悪いし。
私がY君を好きだという噂もどこから出たのか未だにわからない。
尊敬はしていた。
けど、尊敬するにあたるほどY君の行動を見るようになったのは、私がY君のことを好きだという噂で安定したらしき頃からでした。

中学2年生の時。
3年生の送別会で、2年生がちょっとした劇をやりました。
私は今でこそ舞台のお仕事をしていますが、当時はまさかそんな仕事につくとは一ミリも考えていなくて。
ただ単に、

「バラバラだったクラスが気持ちを一つにして美しい合唱を成功させる」

的なお話だった気がするんだけど記憶に自信がない。

9クラスの中の数十人が有志として集まってくれて、今も不思議なのですが私は演出のポジションで(当時はそんな仕事のこと全く知らない。)出演者は結構やんちゃ君が多くて人の言うこと全然聞いてなくて大変だったのですが、何故かそのやんちゃ君が多い出演者の中にY君がいて。
セリフはないです。完全にモブでした。
けど私の手に負えない制御をスルッと、大声を上げることなくしれっとこなしてくれてました。
私は当時は大声で叫びすぎるタイプだったことをなんとか修正したくて悩んでいたので、Y君みたいな人がいると助かるなあ。
と、思ったのでした。

15年前くらいはそんな、Y君の行動が理解不能だったのですが。

15歳の少年の、けなげな行動だと解釈したら。

お母さんとしては、そんな可愛い息子に変な女がくっついてきたら嫌だよね。
(バーチャルお母ちゃん妄想中。)

高校は遠くに行ってしまうのでもう会えない。
二度と会えないかもしれない。
その開き直りをY君がいつしたのか知らない。

Y君が第二ボタンだけ残して誰かを探していたという数人からの情報。


べつにね。
わたしがね。
言えない言葉を引っ張り出すためにがんばる必要はないんだよ。

伝えたいことがあるのなら。

自分で言いに来ればいい。

Y君は、来なかった。

ただ、それだけのこと。

親に心を殺された私は、Y君に「好き」と言える資格がなかった。

あれから30年。

Y君は私を探してない。

少年はすぐに新しい恋をする。

適齢期になれば結婚相手を決める。

それなりに稼いでいれば尚更。

私の中に生きている30年前の少年は、私の中にしかいない。


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2019/08/01

虐待児だったわたし。幼い恋を諦めて無視した心の痛み。

わたしが小学校入学したのは、新興住宅地の開発に合わせて新設された小学校。
私たちからすると、ひいおじいちゃん以前からその土地で生きている同級生もいた。

わたしの両親は九州の生まれ育ち。
わたしが小学校に入る直前に新興住宅地に入ってきた。
なので、昔からここで生きている人々とのギャップは逃れようがなかったけれど、他所から来た人が多かったので、他所の者の私たちとしては他人事だった。

当時は分からなかったけど。
地域密着で育った人たちは、お祭りやらなんやらで違う地域の人たちとのバトルがあったそうな。
どこにも属さない私たちは、他人事。

学校ではそんな話出ませんでしたね。
他所者の方が多かったし。


出戻り転校生のわたしにY君が興味があるという噂はすぐに立った。
文武両道のY君。
けどまだ11歳くらい。
ただ単に物珍しさで興味を持っているのは推測するまでもなく。

自分で言ったら怒られるでしょうけど、わたしは可愛かったらしい。
刺と毒をまとった生徒。
家庭でのストレスのためわけわかんない病気になって、週に一度は通院のため遅刻していた。


中学3年の時からかなあ。
通院のため遅刻するわたしの部屋が見えるルートでY君は通学していた。
ブラインドの隙間から、毎週、見てた。

告白?

それが成功してしまったら、他人との距離感をつかめないわたしには、残念さしか与えられない。

すぐにお別れしたでしょう。

言うまでもなく、Y君は知らない遠いところへ就学しました。

「お前にはこの世に生きてる価値がない」
「この世の恥。お前の存在は私の恥だ。死にたいくらいお前はわたしの恥だ。」

そんなことを毎日言われったら。

Y君、好きでした。
...て言ってもね。

Y君が私のことを好きだという噂は、誰かが流したこと。

第二ボタンだけ残して私を探していたらしいY君。

今だから言えること。

ボタンを受け取ってもらいたいなら、探して待つんじゃなくて、渡しに来いや!!!

www。


今思えばね。
どこの高校に進学するのか。
お手紙書いていいかどうか。
それっくらい聞くべきだったんでしょうけどね。

当時のわたしは
「少しでも私を好きなのならば、私が請わなくてもくれるでしょう?
くれないなら、その程度だったのさ、私。」


Y君のことはずっと尊敬していた。
Y君が私に興味を持ってくれてることに気づく日もあった。

だけどなにもできなかた。

今ではね。
17歳の少年のピュアな恋心をね。

私が潰した。


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虐待児だったわたし。幸福感を知らないままグレずに大人になる弊害。

今までも何度か書いていますが、わたしは虐待児でした。

わたしは知能の成長がかなり早かったそうで、1歳の時には普通に日本語を話していて、赤ちゃん言葉で相手をしてくれる大人にダメ出しをしていたそうです。

んまあ、小生意気な。

わたしには子供がいないのでわかりませんが、わたし自身、1歳前後だと思われる時の記憶がおぼろげにあります。
幼稚園に入る前と思われる頃に
「Namiちゃんは賢いねえ!」
と、言われまくってたのも覚えています。

女の子はそんなもんらしいですけどね。

小学校に入る時の知能テストでは、4クラス分のうち1位だったらしいです。
幼児教育はなにひとつ受けていません。

今思えば、父が出張や転勤が多く家に全然いなかったことと。
母が故郷を離れて知らない土地で、ひとりで子育てしないといけない辛さ故なのか、そもそも子育てを放棄していたのか知らんけど、なにも教えてもらったことはありません。
お料理も、家事も、おかたづけのコツも。
日々のお掃除の習慣も。
たまに帰ってくる父には身体中をまさぐられまくる地獄。

そしてわたしは、ひどい喘息で体が弱かったのもあってアルバイトには不利でしたが、結局親が認めてくれないので全くバイトできず。
かといってお小遣いが多いわけではない。
友人たちのお小遣いの7割以下でした。
うちは当時たぶんそれなりに裕福でしたが、親たちが諸々の相場価格やなんやを調べずに自分たちがそれくらいの年齢だった頃と物価が同じだと思い込んでるし、現実を言うと殴られまくるので諦めるしかありませんでした。

そのうえ、わたしは
「この世の恥」
だから、外には出せないできそこないだからということで、お友達の家へのお泊まりも禁止。
学校帰りにお友達とご飯食べて帰るのも完全に禁止。
まあお小遣い足りないからどのみち行けなかったけどね。

挙げ句の果てには
「外出すると交通事故に巻き込まれたり変な人に絡まれたりするから家にいろ。」
...そんなことを言われながら
「この穀潰し!誰のおかげで学校に行けて飯食ってると思ってるんだ。家賃と生活費払え!何様のつもりだ!!!」
と殴られまくるという〜。
「じゃあバイトする。」
「お前みたいなこの世の恥を社会に出すなんてそんなことできるわけないだろ!!!何様のつもりだ!!家賃払え!!!」

はい、もう無茶苦茶。

中学生の時に行った、校外学習という名の修学旅行がとても楽しかったので、帰宅後いろいろ聞いて欲しくて喋りまくってたら

「うるさい!!私はお前の話を聞くために生きてるわけじゃないんだ!聞きたくもないし面白くもない!!!黙れこの穀潰し!!」

...私はいったい誰の子なんだろか。
こんなん、孤児院にでも行った方がマシじゃないのか?
お風呂にはいつも一緒に入りたがるのに(触られまくるので心底嫌だった)、楽しかった話はひとつも聞いてくれない。
自室で勉強してたら、サスペンスドラマを一緒に見ようと邪魔してくる。
当時は大概女優さんがおっぱいポロリする。
濡場は当たり前のようにある。
とんねるずのバラエティを「いかがわしい」と言って見せてくれないのに、エロエロ2時間サスペンスは強制的に見せられる。
それどころじゃない、テストやばいから勉強しないと。
と言うと殴られる。

そして試験結果が悪いとまた怒られる。

大学入学と同時に家を出ました。
私は、お友達と一緒に食事をするとか、お友達の家に泊まるということを全くしたことがなかったので、積極的に友好関係を作ろうとしてくれる友人先輩後輩たちとの距離が全くわからず、とても苦労しました。

そんな苦労も、25年経ったら慣れましたけどね〜。

私は20代後半の時に、育った環境が劣悪すぎるが故の、パニック障害とか抑うつとかになって、大変でした。
リストカットもしてました。

それから数年経って、実家とたまには交流できるようになったのですが、酒の勢いだかなんだかで父が
「リストカットの跡わかんないじゃん!」
と言ったのにはブチ切れました。
わかるとかわからないじゃなくて、お前らのせいでリストカットしてたんだよ!!
こりゃ反省してないってこったな。
と思って、今後は実家に飲み会誘われても行かないことにしました。

今の私は、昔を知らない人から見ると、幸せいっぱいに育ったように思えるそうです。

全然違うのにね。

虐げられて生きてきたから、ムカつくこと言われたら、相手を完全にぶっ潰すまで言葉選びませんよ。
「人の心がわからない人非人!!!」
と、何十回言われたかわかりません。

だって、今まで誰も私の願いを叶えてくれたり相談に乗ってくれたり、雨の日に傘を持ってきてくれたり、怪我を心配して迎えに来てくれたり、体調不良で病院に行くのに付き添ってもらったことなんかないんですもの。

習い事は何にもさせてもらえませんでした。
だけど、オリンピックで金メダルを取った若い子たちや、各分野で活躍する有名人の出演するテレビを見ては

「うちの子はなーんにもできない。私だって子供に金メダル取ってきてほしいわ〜!ほんとうちの子たちは情けなくて死にたいわ。」

とかのたもうので、

「なにもさせてくれずに閉じ込めてるくせに何言ってんの??あの子達がメダルとるほど練習するために親や大人たちがどれだけ頑張ってくれてたと思うの??そんなこと言うなら習い事くらいさせてよ!!」

...と言ったら当然殴られました。

高校3年生になってからは、拳が飛んできたらとっ捕まえてひねり上げて自室に逃げてましたけどね、自室の襖につっかえ棒してもそれ破壊して殴りに来てましたね。
蹴り飛ばして追い出してましたけどね。

何故かグレずに大人になりましたが。
他人との距離感がわからず。
「自分」というものがないので。
他人に合わせると嘘がすぐバレる。
通常運転の自分のままだと「冷たい」とか言われる。

ほんとに、私は失敗作なんです。
結婚したい、それ以前に彼氏がほしい。
と全く思わないのは、自己評価が低い、それ以前にこの世に生きててごめんなさいな人間であることと、それが故に誰かが私と結婚しても、絶対に幸せにはなれないと思うからです。
幼少時から叩き込まれ続けた「生きてる価値がない、今すぐ死ぬべき」私が、誰かの妻になんかなれません。

そんな子供の頃のことを根に持たなくても。
と思う方もおられましょうが。

頼るべき人間が肉親しかいない時期に、その肉親から罵詈雑言を受けて、生きてることさえこの世の恥と言われ続けたら。

無理です。



子育てにシクハクしている人に、失敗例を語ってなんの得がある??
不安を増長させるだけです。

私は失敗作なんです。

けど、まだ生きてるから。

死に際まで自分で自分のケアができるようにしておきたい。

けどとりあえず貯金が少なすぎる。

家族がいて幸せってね。

私にとっては完全に他人事。


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2019/07/29

芸術新潮 2019年 07月号

萩尾望都サマ大好きの私。

芸術新潮 2019年 07月号 は萩尾望都特集でしたのよさ!!!



萩尾さんのすべての作品が好きすぎてファンレターも書けないわたくしです。
だって
「全部大好き!神様!!好きすぎて苦しい!」
そんなことしかお手紙の文章に思いつかないくらい。
さすがに恥ずかしすぎて、ファンになって30年くらいになりますが、そんなわたくしです。

  ⇦こちらの画像をクリックするとAmazonに飛びます。

萩尾さんが作品を作り上げる上での下調べ。
それを自分の作品の中に昇華させる技量。

私は「百億の昼と千億の夜」も大好きで、阿修羅像を見るために興福寺に3回くらい行ったことがあります。
光瀬龍原作の、萩尾さんが描いた「百億の昼と千億の夜」。

もう、なにもかもが。
解釈も表現も技量もとてつもなさすぎて。

神。

デビュー50周年記念「萩尾望都 ポーの一族展」


会期中ちょっと忙しくて、2回しか見に行けなそう。
うぐぐぐ。。。

もーね、
萩尾さんはね、
オリジナル作品が名作すぎるのは当たり前なんですけどね、
原作ありの作品もすごいんです。
恐るべき子どもたち
とか、ブラッドベリ原作のとか。
私がたしか中学生の時に国語の教科書に載っていた「霧笛」。

原作は

 ⇦こちらに。

萩尾さんによる漫画は

 ⇦これに収録されています。


国語の教科書に出てくる、海外SF作品の、灯台守りが怪獣?に出会うお話を、国語の授業としてどう解釈すればいいのか全くわからなかったものですが...

文字で描かれた物語を、目に見える表現で作る人になりたいと思ったのは、このあたりが由来だと思われます。


デビュー50周年記念「萩尾望都 ポーの一族展」

会期が短いよう!!!
オフの日にへそくり握りしめていってきます!!
鼻血出そう...

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