2017/02/15

『食無双』で塩ラーメンを食べた。

先日、目黒でお仕事がありました。
作業開始は午後からなので、ラーメン食べたくて。
権之助坂沿いに、ラーメン屋と中華屋がすごく密集しているところがあります。
どこにしよう〜。
仕事場で昼食と夕食の間のタイミングでお弁当をいただけるお仕事なので、満腹になりすぎてもあかん...
そのため、家系は候補から排除...。

どーしよっかな。
と思ってた通りすがり。
食無双』を発見。



ラーメン屋というか中華屋さん?
テレビでも紹介されたらしい。
席は空いてるみたいだし。入っちゃお。

食券制ではなく、普通に席で注文してレジで会計するタイプでした。
スーラー湯麺がイチオシっぽいのですが、食べるのが遅い私。このあとお弁当も食べなきゃいけない私。それにスーラー湯麺900円もする。さっさと食べなきゃいけないのにそれはちょっと高い。
悩み悩んで、普通の塩ラーメンにしました。
670円。


おお。
綺麗。美味しそう。

と思ったら!
見かけの予想以上にとっても美味しかったんです!!

麺は細麺。
食べるのが遅い私でもスルスルっと食べられる。
柔らかく、軽いけど深みのある塩味スープ。
私はまあそれなりにラーメン屋に一人で行きますが、気に入ったところにリピートするタイプ。数多くお店を知っているわけではありません。
ここでは豆苗がトッピングしてありました。
豆苗って、スーパーで安いけど、自分で買って食べてもなんか、どうしたらいいんだろう、ほんとに草食べてる感じ。
と思ってましたが、このトッピングの豆苗は、シャキシャキした食感と野菜の味がアクセントになって、とっても美味しかったです。
中華スープに入れればいいのか。

そして驚いたのは、チャーシューの柔らかさ!!
わー、チャーシューでかっ!
チャーシューって硬かったりパサパサしてたりするので、どんなのが来るんだとちょっとしたヒヤヒヤアイテムなのですが、これが!!
これが!!
箸で簡単にほぐれるフワフワチャーシュー!!!
口に入れたらホロっととろける!!
これだったらチャーシュー麺も食べられそう!!
どうやったらこんなに柔らかくて優しい味のチャーシューが作れるんだろう!!
あと、味卵!
私はゆで卵がちょっと苦手です。
黄身のパサパサが喉にはりついたりするのが...。
そのため、サンドイッチの卵サンドは避けます。
サラダにゆで卵が入ってるのは注文しません。
卵に恨みはないんだけど、今ここにゆで卵いりません。ってことが多くて...。

余談ですが私はいただくお弁当に入ってる卵焼きは大概残します。
甘いかしょっぱいか、食べるまでわからないので...。
甘くてもしょっぱくてもどっちでもいいんですけど、予想外の味覚に襲われるのに疲れてしまうのです。。
とてつもなくおなかがすいててヘロヘロだったら、味がなんでも、甘くてもしょっぱくても、ゆで卵が固ゆででも半熟でもなんでも食べますが、他のおかずがガッツリだったらだいたい残します(すみません)。
で、ここの味玉は、塩ラーメンには半分に切ったのがトッピングされていまして、これが一口で口に入れられるサイズ!!
半熟の黄身がとろっととろける!!
大きさと味と黄身の硬さが私に全てフィットしてくる感動♡

感動しながらすすっておりました。
もともと食べるのが遅い上に、仕事場に着かないといけない時間が刻一刻と迫ってくるので、とにかく食べ切らねば。と思っていっしょうけんめい食べました。

土曜日のお昼。
私の母世代のマダム2〜3人連れのお客様や、常連っぽいおじさま方がゆっくりと食事をしている様子を感じました。
BGMは日本のポップスでした。

いや〜、本当に美味しかった!
スーラー湯麺とワンタン麺が特にオススメらしいので、今度は是非それをいただきたいです。
目黒でのお仕事は2ヶ月に1度呼ばれるか呼ばれないかなので、ここでラーメンを食べたいがゆえに目黒まで行ってしまうことも、いつかは、ありそうです。

ごちそうさまでした(^ ^)。

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2017/02/14

おもいでばなし。つづきの6。ひとまずおわり。

おもいでばなしシリーズ、今回で一旦終わります。
また書きたくなったら同じこと書くかも。
最近の私は少し不安定で。
思いがモヤモヤなときはとにかく書いて書いて、書いて捨ててをたくさんしてみなさい。と神経症が重症だった時に医師に言われました。
最近ココロは元気だったのに。どうしたのかな。

中学2年生になるときに、Y君とは隣のクラスになりました。
1年生の時は用もないのに離れたクラスまで覗きに行ってましたから(不審者!)。
休み時間とかに普通に顔を見られるのが幸せで、学校に行くのは楽しかったです。
お掃除の時間に、べつにベランダ掃除当番とかじゃなかったんだけど、何故いたんだっけ。友達とベランダで何かやってたら、Y君たちも、いつも一緒にいる小柄な子と一緒にベランダに出てきて何かしてました。
ホントに何やってたんだろか。

ある日、Y君のクラスのやんちゃ君がなんかやんちゃしてて、シャドーボクシングっていうのか、なんかパンチしてふざけてて、距離感を間違えて窓ガラスに腕を突っ込んだことがありました。
ベランダはつながっているので、私やY君の目の前でそれは起きました。
ガラスは割れて、しばらくは何が起きたのかわからず呆然としていましたが、みるみる血が滲んできたのと、痛みが来はじめたのか、やんちゃ君の顔がみるみる泣き顔になり。
あれは痛いわ。
止血...なにか...はちまき...衛生面が不安だな...上腕に巻けば...? けど隣のクラスのことに、私が首突っ込むのも出しゃばりすぎ...って言ってる場合じゃないんだけど、どうしようかなあ。
と思ってる間にY君のクラスの子が先生を呼びに行って、うちのクラスの担任が来て「縛らなきゃ、タオル...はちまきでいいや。」(なんだ、いいのか。)と、上腕を縛って更に手で握って止血しながら保健室に連れて行きました。
やんちゃ君は確かそのあと、病院に行って刺さったガラスを抜いてもらったんだと思います。
Y君のクラスの子達はそのあと割れたガラスを片付けたり、何かで窓をふさいだりドタバタになりました。私のクラスは「なになに?なにごと?」って感じでした。

中二病なんでしょうかね〜。
私が見えるところにいるときはY君が必ず見てくれてると思い込んでました。
実際、離れていくときは一番最後まで残ってこちらを見ていることが多く、どうすればいいんだろう。と思っていました。

どうにもできなかったですね。
中学生ですし。
もっと私に自信があれば、話しかけたのに。
Y君はあまり積極的に女子に話しかけないタイプだったので、ほかの、友好的な子に話しかけるのとはちょっと違った壁がありました。
私という存在を親から完全否定されて育ったので、あんなに優秀なY君が私を好きになってくれるわけがない。本当の私を知ったら嫌われるだろう。だから、このままでいい。
そう思っていました。

高校生になる時に地方の学校に行ってしまうとわかって。
手紙を書いてもいい?と、聞きに行きたかったです。
けど、高校生の男の子が、手紙だけで全然会えない、当時は携帯もメールもスマホもないので本当に紙の手紙だけの私のことを想い続けるなんてありえないだろうな、と。
3年間、目の前にいる女の子に恋をしないでいるわけがないと思ったのです。
大学生になる時にそばに行くから、私のこと想って待ってて。
なんて、叶うわけがないと思って。
こういうところが、精神的虐待を受け続けた結果の自己評価の低さなのだそうです。

15歳という不安定な世代。
保護者に保護されず、愛されず、否定され、殴られ蹴られ。
まだ若すぎて、それに私は体が弱すぎて、家を出て自活できるわけでもなく、八方塞がりな時期を乗り越えさせてくれたのはY君の存在でした。
いま、自分に15歳の子供がいてもおかしくない、むしろいるのが普通な年齢になり。
街で見かける15歳くらいの子供たち。
15歳の自分の子供を心から愛してる友人たち。
大人になるまでのバックグラウンドの違いの残酷さ。

Y君と同じ部活だった同級生と連絡がとれたので、なにげなさを装って実際全然なにげなくない感じで、Y君のことを聞いてみました。
卒業以来全く連絡とってなくて連絡先もわからなくて。との返事。
やっぱりなあ。

40代になった大人の目線から、15歳の頃のY君を思うと。
かなり悩んでいたのだな、と感じます。
あの頃Y君の表情に陰りがあったのはそういうことか、と。
言いたくて、何かを伝えたくて、でも、できなかったのか、と。
私が鍵のひとつくらい開けられたかもしれないのに。
私に自信がなくて、できなかった。
15歳の少年の悩み、自分の子供だったらいじらしくくるおしく切ないことだろう。
15歳の私には何も気付けなかった。
自分の中の狂気を閉じ込める力しか残ってなかった。

あの頃の私に言ってやりたい。
将来、健康になって、今の悩みから解放される日が来るから。
受け止められなくてもいいから、想いは伝えておこうよ。
ありがとう。って伝えようよ。
Y君の背中をそっと押してあげたい。
一人で抱え込まないで。
あなたの心に支えられて狂気を乗り越える人間がいるんだよ。

他所の子供たちを見ては、感じるのです。
愛と優しさだけで育っている子はどれくらいいるのかな。
あの子たちが、幸せになりますように...。

ここで今回のおもいでばなしシリーズを終わりにします。


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2017/02/13

おもいでばなし。つづきの5。

思い出話を続けます。

私は中1で部活を辞めて、なんかよくわからない病気になって、欠席が増えました。
持病の喘息もあるのですが、月に一度は風邪をひくのと、原因不明の白血球増加、原因不明の黄疸など、いろいろありました。
今だから精神科の医師に聞いて分かりますが、私はあの頃明らかに精神を病んでいました。
どうやら、通ってた病院から精神科の受診を勧められたっぽいのですが、私の父母世代にとっては、自分の子供が精神病院に行くなんて恥!ありえない!みたいな感じで。
診察後、母だけ呼ばれて、戻ってきて
「精神病院に行けって言われちゃった。留年して入院する?」
と、言われました。
入院はしたかったです。
心の底から。
親と離れられるなら今すぐにでも入院したいとずっと思っていました。
児童養護施設でもいい。とにかく親がいないところで生活して、今の学校に通いたい。
中学校留年は、嫌だな...
親から離れた施設に入って今の中学校に通いたいな...。

「学校には行く。」

それしか言えませんでした。
本当のことを言ったらまた殴られて、存在全否定されて罵詈雑言、大変なことになりますから。

白血球増加は、内臓で何かしらの問題があるのだろうといろいろな検査をされましたが、何も見つからず。
毎週、火曜日だったかなあ。朝一で病院に行って、血液検査されて、遅刻して授業に加わる日々が、数ヶ月ありました。
教師には周知してもらってたので、2時間目くらいの途中ににヌルッと教室に入っていました。
検査とかの事情によって決まった時間に学校に行けるわけではなかったのですが、病院の受付開始時間に行くには、登校時間に家を出てもちょっと早くて。
いつも通りに支度を済ませて病院に向かうまで時間があったので、自室のブラインドの隙間から外を見ていました。
Y君が通るからです。

うちは谷間の団地だったので、小学校も中学校も直線距離は近いのですが、谷を登らないといけなくて、ショートカットのルートがありませんでした。
私とY君は、逆の方向から谷を登るルートを選んでいました。
Y君は、私の家のある建物の前を通るルートを使っていました。
私が普通に登校したら、すれ違うルートでした。
(近所で行き先同じなのに逆方向の登校ルートって、今思うと不思議だな。)
何時にそこを通るのかは分かっているので、暇を持て余しながらブラインドの隙間からY君が通り過ぎるのを見るのが週に一回の楽しみでした。
お花畑な私のアタマ。
私がブラインドの隙間から見てるのに気づいて、こっちを見た気がする。
それを感じて、元気が少しだけアップしました。

病院の診察を終えて、次の授業との合間の時間に学校に着くのがベストタイミングでした。
シレっと2時間目だったか3時間目だったかの授業の頭から「さっき来ました〜!」と言えるのが楽。
そして、そのタイミングだと、Y君のクラスの男子が体育の授業で昇降口から外に移動するのとすれ違えたのです。
Y君のクラスの社交的な男子の中には
「お!? namiさん今来たの?遅刻かよ?」
「うん、最近は病院に通っててね、この時間になっちゃうの。」
「そうなんだ。早く元気になれよな!」
「ありがとう。(^ ^)。がんばる。」
そんなフレンドリーな子もいました。
Y君はそれを少し離れたところから見ていました。
午前中に2回、Y君の顔が見られる。
幸せでした。
唯一の心の拠り所でした。
一言も言葉は交わさないんだけど、ちゃんと私のことを見てくれているような安心感がありました。

次くらいでしめます。


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2017/02/12

おもいでばなし。つづきの4。

四半世紀前の思い出話。
まだ続きます。

私は中学生の頃まではまあまあ勉強ができていたのですが、塾に行ってる子と比べると差があるなあと思ってきていました。
うちは父がバリバリの理系なので、教えてもらおうと思って聞いても「なんでこんなもんがわからんか!」とぶっとばされたり(わかんないから聞いてるのに...)「おっぱい大きくなったか」と胸を弄られたりするので父のことが大嫌いになりました。
それもあって男性不信になったのですがその話はまたいつか。

で、私も塾に行きたいと言い。
近所の子とか、大勢が行ってたから許してもらえたのかなあ。Y君も通ってる進学塾の入塾テストを受けて。Y君と同じレベルのクラスに合格しました。
女友達と一緒に通って、塾の行き帰りにお喋りするのが楽しみだったので(オイ、勉強は...)しかもその子...Mちゃんは(も)Y君のことが好きだったので、放課後の唯一の楽しみとして通塾していました。
Y君とは違う曜日だったのですが、都合によって同じレベルの違う曜日のクラスに行くこともできました。
Y君会いたさに他クラスすることはありませんでしたよ!私はそんなマメな女じゃありません。

で、女子には延々女子トークがあるように、男子にも延々男子トークがあるのでしょうか。
Y君が塾に通う曜日、男子たちもチンタラと集団で帰宅します。
当時は最寄りにバスが通っていなかったので、ほぼみんな自転車です。
男子軍団の中、Y君は中心人物ではなかったのですが、いつもなんとなく群れの外縁にいます。
そのときだったか、別の休日だったか。
あれ?
と思ったことがありました。
バッグです。
あの頃の中学生男子の私用バッグって、なんて言ったらいいんだろう。
Y君が持っているのとはとにかく違ったのです。
200mくらい離れたところから見たものですが、Y君は、黒の、たぶん合皮の、A4サイズくらいのクラッチバッグを持っていました。
今でこそクラッチバッグはおしゃれアイテムかもしれませんが、当時の中学生男子が好んで持つものではありませんでした。
あれ?
お父さんのを借りてるとしか思えない。
あれ?

その疑問は、修学旅行のときに更に明らかになりました。
学校的に過去に何かあったらしく、校外学習という名の修学旅行でした。
私たちの母校は校庭が校舎より低いところにありました。
校庭に一旦全員集合してからバスに乗るために階段を昇るのですが、私のクラスより先に昇ったY君のクラスの中に、明らかに浮いてるバッグが。

...小学校の校外学習のとき、いわゆる、昭和後期の小学生がキャンプで背負っていく多機能大型リュック。というのがあったと思います。
パステルカラーの子供らしい色の無地やチェックやツートンで、メインと、左右に四角く出っ張ったサイドポケット、メインの下部にはA5サイズくらいのポケット。
私はたしか小学生の時、白と薄緑のチェックのを買ってもらいました。
(コールマンとかアディダスとかがお手頃価格の子供用バッグを出してなかった頃だと思います。なんか総合スーパーで売ってるやつ。)
私はたぶん、九州への帰省にも使ったと思います。
中学校の修学旅行は、私はどのバッグで行ったか完全に忘れましたが、下着と肌着と寝巻以外は制服で過ごす2泊3日でしたので、化粧道具もないし、簡素なリュックサックでした。
ボストンバッグの子は、いたかなあ...。いたかも。
今現在大荷物で、いつでも一週間くらい泊まれそうなバッグを担いでまわってる私ですが(仕事道具だい!)結構簡素な荷物を、黒の合皮のリュックに入れてました。
今思えばすっごい軽装だったなあ。何持って行ったんだっけ。

自分のクラスが進む順番を待ちながら、先行組を見送りつつ...

...今、バスに向かって階段を昇っている、小学生が持つような白と水色のリュックサックを右肩に乗せて昇って行くのはY君...
黒の学ラン、紺ブレ女子がほぼ全員黒いバッグで進んでいく中、小学生が使う水色のリュックサックは目立ちました。

...え?
...と、いちばん思ってるのは本人だろうな...
どうして?
お姉さんと妹がいるのは知ってる。お姉さんがいくつ上なのかはわからない。
中学生男子が学ランでこのリュックで修学旅行に行くのは浮くって、分かってるおうちのはず。
学習塾やスイミング、その他いろんな課外活動をさせてるおうち。だから団地の子供会に参加してなかったはず。お金がないという理由じゃないはず。
何かが起きている。
...何が??

意を決して聞いたところで、家庭の悩みが原因で得体の知れぬ病気をしまくってた私が解決できることではない。答えてもらえたところで、私の好奇心を満たす以上のことはできない。
けど...

Y君がどんな想いであの修学旅行を過ごしていたのか。
もう、想像すらできない年月を生きました。


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2017/02/11

おもいでばなし。つづきの3。

四半世紀前の思い出話をしています。

中学校は、私もY君も公立中学校に進みました。
Y君の家はどうか知らないけど、私は中学受験の存在を6年生の3月まで知らなかったので、引越し以外で違う学校に行くお友達がいると気づいてませんでした。

私たちは団塊ジュニア世代なので、中学校のクラス数はmaxでした。
私たちの小学校からは、公立中学校に行く人は全員同じ中学校でした。
近隣小学校から半数と、別のところからは3分の1くらいかな。合流して、9クラスありました。
クラス替えは1年から2年になるときだけ。2年から3年はクラス替えはありませんでした。
私とY君は中学で同じクラスになることはありませんでした。
2年3年の時、隣のクラスになりました。

1年生の時。
お掃除の時間に割り振られるエリアはたしか1年間固定だったと思います。
クラスの半数は自分の教室内。
何人かは、理科室とか技工室とか他の教室。
単独行動させてもちゃんとやりそうな私のようなタイプは、ひとりでエリア担当させられていました。
1年生の時に私が担当させられたのは、体育館へ行く通路の一区画。
ひとりかよ!
あたしひとりかよ!
なんだよこれ!みんなは大勢で仲良くやってるのに!!
と、配分の理不尽さに無言でぶーたれていたら、校舎側の一区画を担当するのは、全然違うクラスのY君ひとりでした。
えええ〜!
4組と9組がなんで隣なの!
いいけどさ!

少し話は戻って。
私が小学生の頃は、卒業するときに「サイン帳」を集めるのが流行っていまして。
A6サイズより大きいくらいのバインダーに、写真を貼るところとか、自己紹介とか、メッセージを書くところがあってね、卒業前にクラスのみんなに配って書いてもらって、マイアルバムにするんです。
Y君はちっとも書いて返してくれなくて。
小学校卒業するまで「サイン帳書いたのちょうだい!」とずっと言っていたのですが、なんかもう虚しくなっちゃって。もらえてないのは私だけじゃなくて誰にも渡してないっぽかったし、中学生になっちゃって、お掃除が隣のエリアになったものの、いまだに「小学校の記念のサイン帳!何か書いて早く返して!」と言い続けるのもバカらしくなり、言いたいけど、言うのをやめました。
やっぱりY君はまだ子供だったのかなあ。
私がまた「サイン帳!」と言うのを待っていたような気配は少なからずありました。
小学生の延長をするのがバカらしくて、けど、シャイなんだか人見知りなんだか(今更...)ムッツリなんだか分かりませんが、Y君エリアの砂埃をこっちに吹っ飛ばしてきたり、あら、あっちはもう終わったんだ〜私も終わるよ〜と思って道具を片付けていたら、私エリアに砂埃と綿ぼこりの山がこんもりとできていたことがありました。
おい。
言ってやろうかとなんども思いましたが、この人は私がこう言うのをわかってやってるから、言っても無駄だし、教師の耳に入る大事にしてもとてつもなくくだらないので何も言いませんでした。
今思えば、言い方のバリエーションはあったんですけどね。
当時の私にはできないことです。

続きます。

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