2015/01/29

メンタル#4…小学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
の続きです。

前回のエントリ、長過ぎましたね…
ざっくり書いたあと手を入れるとどうしても長文になってしまいます。気をつけます。


今、家族のみの席でネタとして話しても母は「嘘だ!」と譲りませんが、小学4年生くらいにして、私はすさまじい量のお使いを頼まれていました。
私は一応いい子ちゃんだったので、お母さんの役に立てるなら。と、できる自信がないことでも、困ったら誰かに聞けばいいや。と、まあ結構なんでもやってました。

わたしは痩せっぽちだったのもあって、太るようにというのもあり、牛乳を1人で毎日1リットルくらい飲まされてました。
水代わりですね。
毎日か、2日に1回は4リットル分を買ってました。
関西の小学校にいるとき、小学生の足で10分くらいかなあ、歩くところにあるスーパーへしばしばお使いを頼まれ。
牛乳4本、お肉を何か適当に。じゃがいも。なんとか。かんとか。

これ毎回。

今だから思うんですけどね、小学生の徒歩のお使いに、牛乳4本は無理です。
1リットル4本ですよ。
それだけで4キロですよ。

袋詰めして持ち上げた時はいけるとおもうんです。
でも、どんどん重くて辛くなってゆくんです。
だんだん、10歩ごとに休むようになります。
まだ半分だよお…ぜえ、ぜえ。

お肉は、母はメニューから素材を考えず、素材からメニューを考える人なので、自分が買い物に行きたくないときはよく「なにかお肉」いう指示でお使いに行かされました。
当時、自分の一ヶ月分のお小遣いが500円あったかなかったかくらいなので、適当に買ってこいと言われても1パック500円を超えるともうビビってしまうので、私が買ってたのはいつも鶏胸肉でした。
今でも鶏胸肉ばっかり買ってます!

父はなんだかんだでほとんど家にいなかったので子育て完全に他人事でしたが、私が成人して精神崩壊して、手首切ったりODしたり死ぬ死ぬ騒ぐようになってから慌てて私の話を少しは聞くようになりました。

先日父に、
『関西にいた時に、お使いのたびに牛乳4本頼まれてた。
無知な子供だから何も考えず引き受けてたけど、あまりにも重たくて毎回くじけそうだった。』
と話したら仰天していました。
牛乳4リットル、大人でも持ちたくないのに、そんなのやらせてたんか…
「そら大人でも嫌だわ!!」
「でしょ。やってたのよ。大変だったんだよ。」

もう何もかも遅いですけどね。
何もかも。

そして他人事のようにしていた父は、私の体をまさぐりまくり、いやがるのをくすぐりまくり、そのせいで私は喘息の発作を何度も起こしました。
もちろん父は今でもそれを反省する気はありません。
「だって構いたかったんだもん。親心だ!!あんたには分からん!!」

だからって喘息の発作を起こすまでやるのはまちがってるし、そのせいで男性不信になったのをあのひとは理解していません。


関東の学校に戻り。
私がいなかったのは2年ちょっとだけですが、クラスが増え、クラス替えもあり、引っ越して行っちゃった子、知ってたけどはじめて同じクラスになった子、仲良しだったけど今度は違うクラスの子、などなど。
お友達作りには困らなくて、前から知ってた子と改めてお友達になれたり、結構楽しく忙しかったです。
3学期の途中という変なタイミングで戻ってきましたが、学年が変わったらまた班長とか学級委員とかやらされてました。

6年生の時の担任が、転校前から嫌いだった先生でした。
いやだな〜。と思ってたら、ホントに、とんでもない先生でした。
このネタだけで本が一冊書けるくらい無茶苦茶でした。
私はちょっとリーダーシップがあったらしいのですが、塾には行ってなかったし、中学受験なんてモノの存在も知らないくらい特に勉強をしてない子供だったのですが、なんかそれなりに勉強ができたりしてたらしいです。当時は。もう見る影もないですが。
んで、私が何故か解けちゃったテストの問題を、難関校に中学受験する子が解けなかったらしく、担任に怒られてました。
そこまではともかく。
「Namiも解けてるのになんであんたができないんだ!!」

…え?
いま何か言った??

彼女はだからと言って私をいじめることはしませんでした。
なんかよくわからない不思議なサークル的なものを彼女が作ってて、テストされて、私は不合格になったらしいです。
なんかそのテスト?のだいぶのちに、私にそれを打ち明けてくれましたが、全然意味が分かりませんでした…。お勉強させられてる子って、考えてることの次元が私とは全然違うんだなあ…そのサークル的なもの、意図が全然分かんないから、合格しなくてよかったわ…
みたいな。


6年生のその無茶苦茶な担任のとき、ある男の子が登校拒否するようになりました。
私が戻ってきた時に初めて同じクラスになった子で、私は結構楽しく普段お喋りしてたし、戻ってきた当時何かと関西の学校との違いを比べる発言をしていた私に
「だったら関西に帰れよ!」
と彼は言いましたが、私は

『ああ、そうか、こういう話し方をすると、こっちの学校を否定してるように聞こえるよな。こういう言い方は今後止めよう。』

と気付きました。
この点は、本当に彼に感謝をしています。
彼がああやってバシッと言ってくれなかったら、私はズルズルとああいう言動を続けていたと思います。

そんな彼が学校を休みがちになり。
ある日、クラスの女子は自習になり、男子は全員、隣だったかの社会科資料室に呼ばれました。
まともじゃない状況。ってか、この担任のもと、まともな状況だったことは皆無ですが。
私はその時も班長だか学級委員だかをやっていましたが、これはたぶん男子が酷い目に遭うぞ。と思い、自習している教室を抜け出して、社会科資料室のドアの下の方の空気穴のところから四つん這いで中をのぞきました。
(女子たちは多分、そんな私を見て見ぬ振りをしてたんだとおもう。笑。)

そしたら。
20人くらいいる6年生の男子。
まだ細くてちいちゃい子もいます。
全員並んで正座。
それを端から順に担任が平手打ちしていきました。

ありえない。
ありえない。

登校拒否しちゃった彼をからかってるのかいじめてるのか、そういう子もいますが、明らかに無関係な子もいるのに、男子というだけでまとめて全員平手打ち。
ありえない。

私はそっと教室に戻って、一人で怒りをフツフツさせていました。
女子たちはたぶん私の様子で、何が起きているかを察したと思います。

男子たちが戻ってきて。
私は同情と怒りの気持ちをどうすればいいのかわからず。
男子たちは誰も何も言わずに黙ってました。涙目の子もいましたが何も言いません。
言いようがないですよね。
私も、端からぶたれているのを覗き見してたとは言えないので、誰かが何かを言い出すのを待っていたのですが、誰も何も言わないので、私も聞くことができませんでした。

それから15年後くらいに、当時の同級生の男子にその時の話を聞くことができました。
登校拒否した子をみんなでいじめたのは本当だそうです。
最初は冷やかしとかからかいだった。そしてそれが徐々にエスカレートしてゆき、止めなくてはと思っても、もう止められないくらい勢いがついてしまって、いまだに後悔をしていると。
登校拒否してた子とは、私は中学でも同じクラスになって、隣の席になったり、たまたま同じカンペンケースを使ってたり、小学校の最後の2月には、チョコ頂戴!ってずっと言ってたので、私には本命もいなかったもんだから、近くの酒屋で買ったガーナチョコレートをあげたくらい結構仲良くしてたんだけど、中学2年生のとき学校に来なくなったまま転校してしまいました。


小学生の時の後半の記憶は、トンデモ教師への怒りと、トンデモ教師の罵倒のなかでみんなでどうやって生き抜くかを考えることでアタマがいっぱいだったのか、家庭でのことはよく覚えていません。
覚えてることのひとつは、そんな嵐のような日々のなか、誰かが、YくんはNamiちゃんのことが好きなんだよ。と言ったことです。
小柄で坊ちゃん刈りだけど、塾に行っててスイミングスクールにも行ってて、スポーツなんでもできて、勉強もできて(よくわかんないけど学校の勉強しかしてない私よりとっくに先に各教科を理解してることには気付いてた)当時はたしか私より小柄だったけど文武両道でおとなしそうな彼が何で私みたいな口やかましくて痩せっぽちで色黒で、走ればビリ、ドッジボールは逃げるだけ、投げても地面に落ちるだけ、給食食べきれずいつも一人で居残り給食の私なんかを好きになるんだろう。と不思議でした。

振り返ると、この時点で私自身も登校拒否になったりしておかしくなかったんですよね。
あの時の担任は児童たちの前で堂々と「良い子」「並の子」「ダメな子」とカテゴリ分けをして、良い子はおだて、並の子は顎であしらい、ダメな子は罵倒しまくってました。
ありえないです。
「良い子」カテゴリにいた私は反骨精神旺盛なタイプでもあったので、理不尽な指示のもとリーダーをさせられるのが嫌になって、指示をほっといたことがあります。
そのとき
「ふーん、Namiはもうみんなを引っ張ってくのやめるんだ。」
とクラス全員の前で言われ
「はい。」
と答えました。
男子を端から順に平手打ちしたみたいにするならやりやがれ。
と歯を食いしばって担任を睨みつけて待っていましたが、
「じゃあもう頼まない。」
と言われて終わって拍子抜けしてしまいました。
平手打ちされたらその足で職員室に行って全部わめいて、そのまま校長室に乗り込んで行こうと思ってたんですけど、お釈迦になっちゃいました。。。

続きます。


にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/01/26

メンタル#3…小学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
の続きです。


小学生の時の私は、体育と音楽以外はオールAあるいはオール5をとれてました。ほぼ。
音楽は、ピアノ弾けないし楽譜読めないのでしょうがないです。頑張ってる。ってことでBか3でした。
体育も、徒競走は万年ビリだしなんだかんだ。リレーの選手なんて私とは完全無縁でした!
でも、体重が軽かったせいか逆上がりは普通にできてたし(空中逆上がりは無理でした)跳び箱も6年生のとき5段は飛べてたし(当時は身長が平均以上あったので6段は行きたかったけど身体能力が無理でした。)マラソンは割と好タイムだったのと、真面目さだけで3かBを死守してました。
あと嫌いだったのは給食。
好き嫌いはほとんどないんだけど、食べきれないんです。
アラフォーの最近になって気付いたのは、家で食べさせられすぎだったんです。
夕食はステーキかお刺身かハンバーグか豚カツがそのあたりが必ずあるし(豚カツは3枚から4枚食べさせられます)朝食はその残りをがっつりです。
そうすると、お昼におなか空かないんです。
で、給食食べきれなくてお昼休み無し。お掃除の時間も食べて、5時間目になってやっと開放される。

音楽の時間は、転校前は、楽譜読めなくてもメロディー覚えちゃえば歌えるし、とりあえず右手でリコーダー吹けてるみたいだし、自信は全く無いんだけどまあついていけてるのかなって思ってました。成績はBだからまあ、音楽教室とか行ってないんだからCじゃなくてよかったよね。くらいな。

ただ、転校先の小学校とは音楽の進み具合が全然違って、転校先ではみんな当たり前に両手でリコーダー吹いてました。
転校前は右手だけで「たこたこあがれ」とかを延々とやってたのですが、転校先はみんな両手で普通に「エーデルワイス」を吹いてるんです。
デタラメにリコーダー吹いてる私を見かねて放課後に音楽室で音楽の先生に特別指導をされました。
分からないなら吹かなきゃいいのに…と、クラス中大騒ぎさせました…あはははは〜。。。
特別指導で習ってみたら、なんだ、簡単じゃん。。
なんでこれをさっさと進めなかったんだろうか、転校前の学校は…。
とりあえず左手の音階とエーデルワイスを覚えたら特別指導から解放されました。
一部の子には再転校間際まで、私がデタラメリコーダー吹いてたことをど〜のこ〜の言われてましたが、そういえば、私をせっせといじめてた女の子たちはそこら辺全く触れてこなかったなあ…私のデタラメリコーダーに気付いてなかったのかなあ…

…今思い出した。転校前にピアニカでやってたことは転校後の学校はハーモニカでやってたんです。鍵盤ハーモニカじゃなくてハーモニカ。ピアニカ何それ状態な転校先の学校の子たち。
あれはたしか、転校直後に知り、そもそもハーモニカを持ってないので入手し(させられ?覚えてない。)音程の配置が鍵盤ハーモニカと同じだと分かって、吹いたり吸ったりする法則も速攻で覚え、ヨシ来い!!と思ったらもうハーモニカを吹く必要はなくなりました…。
そのかわりというか、アコーディオンを弾く機会を得ることができました。
『音楽わかんないのにこんなの弾けって言われたって!!
しかも和音もやるの!?
そんなのやったことないよ!!』
と泣きそうでしたが、
『ピアニカを縦向きにして、左手はジャバラを動かしてれば音が出る。そんだけ。指使いはとりあえず隣の人のを真似しましょう。』
と分かったら、とりあえず授業や音楽祭をこなす程度にはついていけました。。たぶん。
左手にボタンがあるのだったら絶対無理でした。。小学生じゃやらないのかな。

何をどういじめられてたかの話は、ここでは端折ります。


ここまでの話では、転校経験者の方からすれば特に、『よくあることじゃね?』と思われると思います。
うちがおかしかったのは、私は3年生の2学期の途中に関西に行き、5年生の3学期の途中で戻ってきました。
学年が変わるとき、せめて学期が変わるときとか、きりのいいところで移動させてくれよ!!
そもそも関西と関東で教育指針が全然違うし、教科書も全く違うし、なにより方言ですん〜〜〜ごいいじめられ、そんで、関東の小学校では体操服はブルマで、関西では男女共通の紺色短パンでした。

私は、すぐ関東に戻るからかなんか分かりませんが、結構長いこと関西の小学校の体操服を買ってもらえませんでした。
すぐといっても2年の予定ですから、小学生には永遠のような時間です。

うち、財閥系サラリーマンだったから、体操服買うお金くらいあったはずです。
今だから強く言います。
小学生の体操服買うお金がないほどの金銭苦労は当時全くなかったはずの家庭です!!

毎日胃に詰め込まれてるステーキ半切れのお金で体操服くらい買えます。
そんでも、「無駄だ!」つって、結構長いこと買ってもらえませんでした。
今までブルマなんて履いたことのない子たちのなかに突如私が現る。

「中学生になったらブルマだよ、信じられない、あんなのただのパンツじゃん、いやだいやだ!!」

と言ってる子たちのなかにいきなり登場する緑ブルマの転校生。わたし。

浮いた浮いた。

今思えば、子供だって人間関係に苦労するとか、そういうことを全く慮る心のない親たちでした。
少しの違いのせいで、ものすごい攻撃を受ける。
そんなこと、転勤族の親たちのほうがよっぽど気付いてたはずだと思うのですが、子供にはそんなの関係ねえと思ってたらしい。


その当時からうちの母は鬱っぽい状態で、朝はなかなか起きてきませんでした。
あ、あと、小学生のとき私たちの朝ごはんはパンが多かったのですが、飲み物はインスタントコーヒーでした。
おやつタイムもインスタントコーヒー、ときどき、サイフォンで入れたコーヒーでした。
嫌いじゃなかったから飲んでましたが、あれで私は最初に胃とメンタルを悪くしたんじゃないかなと思います。
お友達が「コーヒーは子供だから飲まない。紅茶とかミロとか飲んでる。」って言うのを聞いて、子供ってコーヒー飲まないの??なんで??カフェイン??なにそれ、刺激が強いの??それってよくないの??ちょ〜飲んでるんだけど…
と、呆然としたことを覚えています。

小学校に着ていく服を気にしてもらった記憶はありません。
服を買いに行っても、お嬢様が着るようなドレスばっかり見て、学校でドロンコになれるような服は絶対買ってくれないんです。
困って困って、親戚から送ってもらったお下がりの服のなかのワンピース、今日はこれでいいや!
と思って着てみても、合わせられるインナーがなくて、脇から上半身丸見え。
ブラウスを合わせてみたらお嬢さん過ぎて完全に浮く。
どうしたらいいのか分からなくて遅刻しそうになったこと何回かもう覚えてません。
もちろん、寝る前に<明日着る服を揃えて枕元に置いてから寝る>なんて躾は受けてません。
のちのち、知りました。
前の日の夜に、家族が、明日着る服について指導してるんだ、よそんちは!!
朝パニクって騒いでも他人事のように放置されるか酷く怒られるかで、指導なんかしてもらったことないよ!!
関西の学校は困れば体操服で行けばよかったので、そういうときは早々に開き直って体操服で行くことにしました。
冬はどうしたのか覚えてない…

靴も、運動靴を買ってもらえないのでカジュアルドレスシューズみたいなので体育に参加してたら先生に怒られました。たしか違うクラスの先生でした。運動会の練習の時だか何だかで。
『なんでこんな靴履いてくんの、体育なのに。』
って。
だ〜よ〜ね〜。
だ〜よ〜ね〜〜。
先生、それ、うちのおかーさんに言ってください。
運動靴買ってくれないんです。

って、もしかしたら言ったかもしれません。
よく覚えてない。。
靴のことは本当に困ってたので殴られるの覚悟で言い続けてたのですが、殴られたのかもしれないんだけどもう覚えてない。。
ある時突然、買い物先で「選びなさい」とうんざりした顔で言われました。
うひょ〜!!
本当は
『みんなが履いてるあれとかあれとかがいいんだけど、なんか値札の数字が大きいよ。
あんまり数字が大きいと、のちのち、あんな高価な靴を買ってあげたのにお前と言うやつは!!と、よくわからない理由で殴られる!』
という確信があったので、なにげなくノーブランドで数字が少ないのを選んで「これがいいです。」と言ってました。
大人になって思うと、大事大事に育てられた子が履いてた運動靴と、私が漸く買ってもらった運動靴。たぶん当時の価格としての違いは3,000円くらいだと思います。
これが高いか安いか。
安くていいんですけども、運動靴買ってもらうのに、お金がないという理由ならともかく『お前なんかに余計な金使いたくネエのに何ゴチャゴチャ言ってんだ!!』って態度を乗り越えて訴え続けないと運動靴一つ買ってもらえない。
でもお友達は、何の軋轢もなくすんなりと、私が履いてる運動靴が2つか3つ買えそうなのを買ってもらえるんだな〜。安くていいからバトル無しで買ってもらいたいのにな〜。
と、思ってました。


そんなこんなで。
私は妹と4つ離れていて、私が関西の小学生の時は妹は幼稚園生でした。
母が朝起きないので、パンを焼いてコーヒー入れて(今思うと幼稚園生にコーヒーはないよなあ。。お砂糖とミルク沢山いれたけど。)食べさせても、妹は食が細くてなかなか食べないし、私は妹を幼稚園に送ってからそのまま学校に行ってもまあ間に合うので、今日はお姉ちゃんと行こうね。と言っても「おかあさんと幼稚園行くの〜〜!!ギャ〜」
と、びくともしないので、起きない母に「お母さんとじゃないと幼稚園行かないって聞かないから、私もうどうにもできないからね?」と言うと「今日は休ませる〜。」

そんなんばっか。

で、鬱っぽい母は私が小学校から帰ってきても寝てる。
妹のお迎えに行かなくちゃ。(その日はどうやってか忘れたけど幼稚園に行ってた。)
「お母さん動けないからあなた行ってきて。」
まあ、そうはっきり言われれば行きますが。

で、行ったら。
お迎え遅めだったみたいで、クラスだったかお遊戯室だっかたでほぼひとりで妹が遊んでた。
…っていうか、普通お迎えに小学生のお姉さんは来ないので、私自身の存在が完全に浮いてました。。

「遅くなってゴメンネ〜。お母さん具合悪いからお姉ちゃんが来たよ。さあ、帰りましょう。」

と言うと

「いやだ〜〜〜おかあさんじゃなきゃいやだあああああ〜〜〜〜!」

と、号泣。
柱かなにかにしがみついて動かない。

こまったな。
たぶん先生の方が困ったと思いますが…
私も小学生ですのでこれ以上なだめる手段は持ち合わせていないですし、母が絶対に動けない状態ではないことも分かってますので、先生に

「母、たぶん来られますので、呼んできます。ただでさえ遅いのに更に遅くなっちゃいますけどすみません…。」

と謝りました。

「こちらは大丈夫よ〜。お母さん無理しないようにね〜。」
とかなんとか言ってくれた気がします。

帰宅して母に状況を説明すると、何も言わずむっくり起きて迎えにいきました。

動けるんじゃん。

もちろん、私に対する労いの言葉も、妹に対する、不安な思いをさせたことの詫びの一つもありませんでした。

続きます。

にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/01/24

メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと

メンタル#1…幼少期のことの続きです。


知能テスト1位で入学した(らしい)第一期1年生。
普通の公立小学校です。
あんまりいろいろ覚えてないです。
ちょっと前まで、忘れていいことまで何でもかんでも覚えてて邪魔だったんですけど、年かしら。どんどん忘れてきました。

出身幼稚園によっては、幼稚園で既にピアニカは習っていて、持ってる子が半分くらい。
小学校に入って初めてピアニカに触れる、私が行ってた幼稚園の子が学校経由で買ったピアニカの方が鍵盤数が少ないと言うよく分からないことに。
保育園からの子はうちの学校の場合結構少なかったのですが、たぶん楽器屋さんで買ったっぽいのを持ってきてました。

小学1年生のとき。
たぶん知能テストの結果を見て教師が児童の扱いを振り分けるんでしょうね。
順序は忘れたけど、班長さんとかなんとかそういうのをいつのまにかいろいろやらされてました。
あと、何だったのか未だに分からないんだけど、授業中に、他のクラスに行って、やはり授業中のところへお届けものをする。
って仕事がしょっちゅう与えられていました。
授業から多少抜けても勉強に追いつけないことはないとでも思われてたんでしょうか〜。

んでも私も人並みに幼かったので!
1年生の初期の頃。
「みんな〜!ランドセル背負いますよ!さあ並んで!!」
と言われ、何の訓練だろうか?
と、からっぽのランドセルをとりあえず背負って列に並んだら、集団下校でした…
そんなこととはつゆ知らず、ランドセル以外なんにも持って帰らないまま帰宅したわたし…

「おかーさーん…おうちに帰るんだとは思わず、ランドセル背負いなさいって言われたから背負って列についてきたら、お帰りだった…全部学校に置いてきた…」

とても覚えてるエピソードです。
結局どうしたのか覚えてないです。
自分で取りに行った記憶はないし、学校は近くだけど、その頃確かまだ給食がなくて(新設校で給食室の設置が間にあってなかったらしい)1年生だからまだお昼前に帰宅してた気がします。だからたぶん、取りに行く必要のあるものはなかったんだと思います。


そんなんで、よく覚えてないですが、年がら年中班長さんは当たり前。
気がついたら年がら年中学級委員もやるようになってました。

親としては、あたりまえの状態だったらしいです。
両親は高校の先輩後輩の関係なのですが(結婚したのはかなり後のこと。結婚までずっとつきあってたわけではないらしく、そんなに空白期間があった理由はよく分からない。)父はなんかとにかくず〜っと主席。大学だけはたしか1科目負けて次席で卒業だったと聞いた気がします。
母はずっとテニスをやっていて、試合試合試合。
同時にずっと学級委員長だったそうです。
だから私が知能テスト1位なのも学級委員常連になちゃうのもあたりまえだったっぽいし、逆に私も、学級委員くらいできないと家で人格否定されちゃうので、当然だと思ってました。


教育ママパパかと思われると思いますが、親はド田舎生まれド田舎育ちですので、「勉強なんか自分ひとりでやるもんだ」ってかんじで、私はなんにも習ってませんでした。
文化芸術の教養にうちの親は1ミリも興味がないのでそういうお稽古事は一切させてもらえませんでした。
唯一、お習字とそろばんは、それぞれ2年くらいさせてもらいました。
お習字は、団地内の同級生のお母さんが自宅でお習字教室をやってたので、なんとなくの流れで。なかなか上達しませんでした。
そろばんは、関西に転校してたときみんなが習っていて、そのカルチャースクールのある建物に行けば入学案内とか申し込み窓口とかがあるのですんなり手続きしてもらいました。たぶん公営の、お稽古事に特化した施設だったんだと思います。
隣でやってるバレエ教室に行きたかった…
でも2年でまたもとの学校に転校するって分かってました。
戻った先には、近くにそろばん教室が無くて、続けられませんでした。
暗算が超苦手で、暗算のせいで4級を3回くらい落ちました。それっきりです。

音楽関係を習いたかったのですが、「うちはお父さんもお父さんも音痴だから無理」。
バレエに興味を持っても、私は猛烈に体が硬いので「あんたには無理」。
…習ってみたら案外できるかもしれないし、レッスン受ければ体柔らかくなるかもしれないのに〜!!
たぶんレッスンに連れて行ったり面倒見るのがめんどくさかったんだと思います。
ちなみに私たち姉妹は学校に行ってる間に突然の豪雨に見舞われても、一度も傘を持ってきてもらったことはありません。
お友達たちが親に持ってきてもらった傘で帰るなか、まだ低学年で体も小さい妹を昇降口で探して、「雨雨降れ降れかあさんは〜 蛇の目でお迎え来てくれない〜♪ぴちぴっちじゃっぶじゃっぶずぶ濡れだっ!うははは〜!」と上着を妹の頭から被らせながら帰りました。
帰宅すると大抵、母は昼寝しています。んで、起きません。

また、先の話しですが、塾や高校通学で駅方面から帰ってくる時にも突然の雨だと、多くのおうちでは車でお迎えにきてもらったり、車じゃなくても傘くらい持ってきてくれるそうですが、うちの場合、ダメ元で電話で頼んでも
「眠いし雨だし寒いしめんどくさいから濡れて帰ってきなさい。」
この返事のみです!
他所のおうちでは夜道が危ないからってお迎えにきてくれるそうですが、そんな理由で迎えにきてもらったことは一度もありません〜。

とにかく
「子供のために送り迎えをする」「子供の教育・成長のために情報収集をする」「子供の気持ちを考える」ということが全く無い家でした。
このため、後年、妹は
「他人の気持ちを思いやるとか、気を遣うってことがなんなのか全然分からない。思いやりをもって優しくしてもらう、接してあげるってどういうこと?」
と、悩んでいました。

冗長になってきちゃったので一旦ここまで。

続きます。

にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ
 

2015/01/22

メンタル#1…幼少期のこと

こんばんは。

検索で来てくださる方は、シムズ フリープレイのキーワードの方がほとんどなのですが
(- -;;
前にやってたブログでもよくアクセスがあった内容…神経症、解離性障害のあたりについて、気が向いた時や暇な時にちょこちょこ書いていこうかと思っています。


幼少期のわたし。
女の子にはありがちだそうですが、1歳で普通に会話をしていたそうです。
大人たちが赤ちゃん言葉を使って話しかけると、正しい言葉遣いに訂正させていたそうです。

わたしの両親というのは、九州出身です。
父はいわゆる団塊の世代で、旧帝大を出て財閥系企業にストレートで入った、たぶんエリートサラリーマンです。
転勤族でいろいろ転々としました。

幼稚園の時の一時期、都内にいました。
社宅で、同年代の子が沢山いるなかでも私はだいぶ賢かったそうで、そのとき住んでたとこの近くにあった某国立大学付属の学校に行けるだろう、と大人のなかで話題にされてたのは覚えてます。
なんかとにかく、賢い、この子は賢いと言われまくってたのは覚えてます。
でも特別な教育は何にも受けていません。
気がついたら家にエレクトーンがありました。
でも私は習ってませんでした。
誰も弾かないのになんであるんだろう。と思いながら、エレクトーンをテーブルにして、父が作った「おはしの使い方練習マシン」でおはしの練習をしてました。

なんじゃそりゃ。ですよね。
アクリルかなんかで水車型のを作って、上から箸で持った木片を落とすと羽がまわって面白かろう。
ってだけです。
んで、お箸がたしか四角い割り箸かなんかだったので、子供の指には角が痛くてすぐ嫌になって、指でつまんで落として遊んでました。


何故誰も弾かないエレクトーンがあったのか。
うちの両親は、音楽の素養が全く無い人で、父なんか未だにサックスとフルートの違いを理解していません。

従弟の結婚披露宴のロビーで。
父「ほら、あそこで渋い外国人がフルート演奏してるよ!」
私「…サックスならいるけどどこにフルートがいる??」
父「あれだよあれ。金色で縦長の。」
私「…。お父さん、酷い恥さらしになるから今すぐ覚えてね。あれはフルートじゃなくてサックス、サキソフォンだから!!恥かきたくないなら、今すぐあの楽器名覚えられないなら絶対他所で余計なこと言わないで!!」

ってくらい無知です。母も同等です。
父「そんなこと言われたって一般人の俺たちには楽器名なんかわかんないよなあ〜。」
と、妹をダシにして開き直り。
知らないなら黙ってろ。

で、うちにはエレクトーンがあって、わざわざ買ったのに、何で誰も弾かないんだろう。
わたし習いにいきたいなあ。

と申し出ると、鬼の形相で拒否されました。
なんでも、私に全く記憶がない頃「習う?」って聞いたら、泣いて嫌がったんですって。
だから二度と習わせない。
…と、中学生になっても言われました。ついでに殴られました。
たぶん、お教室までは自力で行け的なコト言われたんだと思います。
うちの親には送り迎えという概念が全くなかったので。
3or4歳児を1人でエレクトーン教室に行かせるつもりでしたね、あのひとは。
それで、1人じゃいけないよ!って泣いたんだと思います。覚えてないけど。

何の話しに繋げよう。。
無茶苦茶ハチャメチャエピソードが多すぎて、お話しする順番に悩みます。

とりあえず、幼少期のわたしは物覚えがよく、幼稚園の年長さんの時には普通に読書ができていました。
年長で引っ越して違う幼稚園に行きました。
お教室で、絵本をみんなで音読しましょう。という時間があったのですが、私は音読の習慣がなく、サクサク黙読してました。
で、その絵本が、1ページに5行あるかないかなのを、みんながわーぎゃー読んでるんですけど、意味が分からず。
私はわざわざ音読しないといけない意味が分からず、もう黙読で3回くらい読み終わってしまい。
しょうがないからみんなの真似をして音読してみました。
みんなのペースで。

かったりい!!

んで、当時はいろんな大人に「おりこうさんね。賢いね。」と言われていて、へえ〜そうなんだぁ〜私って賢いんだぁ〜。と思ってました。
んで、「わたしは賢く正義感強い子であり、そうやって成長してゆくべきなのである。」
という自己暗示にかかってたと思います。

幼稚園の時は、喘息を発症していて、肺炎を起こして入院したりして、転園先の幼稚園はあまり登園しないまま卒園しました。


幼稚園で私たち一家が引っ越した先は新興住宅地で、団地どーん。一戸建て住宅街どーん。と建ったタイミングだったので、小学校も同時進行で作っていて、私たちは第一期1年生でした。
そのとき。今もあるのかしら。入学前に知能テストがあって。
私が入学した時は200人いるかいないかくらいだったのかな。
普通は教えちゃいけない事だそうですが、私は知能テスト1位だったそうです。

続きはまた…




にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ 

2015/01/20

閑散期

こんにちは。

仕事がなくて暇ですっ!

今は派遣OLとの掛け持ちはしてなくて本業一筋なんですけども、今の時期、この業界、暇なんです…
クリスマス、冬休みに行われるあらゆる発表会、カウントダウン、成人式。
と、1ヶ月でイベントがぎゅーぎゅーになったあとは、これですわいな(- _ -)
週末だけは何かしらあるのでチョコチョコ働きにいってます。
暇はあれどお金があるわけではないので引き蘢り…
寒いから余計に引き籠り…
仕事を選ばなければないことないんですけどね、スタジアム系とか、知らない人しかいない現場は遠慮しておりますので…
私はあまり人見知りをしないので、知ってる人がいなくても頼まれれば結構行っちゃうんですけど、知り合いの知り合いならともかく、名前と連絡先しか知らない人の知り合いは所詮他人…。。
行ってみたらあらビックリで知人がいたりもするんですけどね。。。

そんなんで、ちょっと働いて、オフになっちゃって、自炊じゃー。ってチョコチョコ作ってごはん食べて、昼間っから酒飲んで、寒いからってゴロゴロしてるわけなんですけども。
昨夜久しぶりに酷い腹痛に悩まされました…( _ _ )..........o
漢方をサボったせいかなあ…ああ、辛かった。
私は元々おなかは強い方なのに、去年のストレスから、すっかりヨワヨワになってしまいました。

お散歩に出かけたいけど寒いしなあ…
ぐうたら…

にほんブログ村 その他日記ブログ その他アラフォー女性日記へ