2015/02/13

メンタル#7…中学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
メンタル#5…小学生〜中学生時のこと
メンタル#6…中学生時のこと

の、続きです。


最早ただの言訳ですが、家で罵倒され殴られ蹴られでしたので、私は学校ではいい子と同時に刺だらけでした。
そんなことわざわざ言わなくてもいいのに。という残酷な事実をズケズケ言ってました。
自分では普段普通に過ごしたいだけなのに、何をしても罵詈雑言を浴び、人格と存在を否定され、不要なものを押し付けられ、大切なものを破き棄てられ、誠意を踏みつぶされ、ボロボロにされていた私には、遠慮とか思いやりとか優しさとかがありませんでした。
たぶん私の発言のせいでしばらく学校に来られなくなった子が…いましたが…違うクラスになったらちゃんと登校していたので、少しホッとしました。
『考えてることは正直に発言しよう。』
の、<正直>の加減が私には分からなかったのです。

勉強はだんだんと、数学が特に分からなくなってきました。
塾には行ってましたが、勉強の仕方が分からなくなってきました。
それまでは、教科書を読んで、すんなりと理解できていたことがほとんどだったのですが、数式を見ても答えの解説を読んでも全く意味が分からなくなってきました。
塾の授業を聞いても、何故それがそうなるのか全然分かりませんでした…

学校の授業のことはあまり覚えていませんが、放送委員をやっていたときの幸せな時間を今でも忘れません。
交代で、朝の放送と帰りの放送をするのですが、帰りの放送は、部活をやってなかった私は放送を流す時間まで、職員室の横にある放送室でぼんやりと時間が来るのを待っていました。
窓から、校庭で運動部が練習をしているのが見えます。
サッカー部でキーパー練習をしている1人は、私が傷つけた子。
元気に部活動やってて良かった。ごめんね。
そしてYくん。
誰にも邪魔されず堂々とこうして見ていられるのは幸せだなあ〜。。
と過ごしていて、放送を流す時間を間違えたことがあります。多分。

告白とか、全く考えてませんでした。
だって無理だもの。
自分で自分の異常さを持て余しているのに、どうしろと。
好きだと言いながら、私が知ってる言葉は人を傷つけるものだけだから。
みんなみたいに、優しくなれないし(優しさを知らない)素直になれないし(素直ってどういうことなのかわからない)万が一両想いとかになっても、私はアタマがおかしいから、迷惑をかけるだけ。
だから、なんにも言いませんでした。
何もしませんでした。


奇跡的にグレなかった極悪な環境のなか、中学校生活を生き抜けたのは、Yくんのおかげでした。何にも会話してないけど…

ある時から私は毎週決まった曜日に通院のため学校を遅刻していました。
病院に行く時間まで、部屋の窓の外を見ていると、Yくんがうちのそばを通って学校に行くのです。
Y君がこっちを見てくれた。
という妄想で幸せな気持ちになりながら病院に行きます。
休み時間のタイミングで学校に着くと、Yくんのクラスは次の授業が体育のため、昇降口にきます。
そこでまたすれ違うのも、小さな幸せ。

こうして実体のない幸福感を抱いて苦痛から気持ちだけでも逃れるようになり、私の乖離はますます進んで行ったのだと思います。


乖離…
ずっとのちに精神カウンセリングを受けて教えてもらったのですが、幼少期から私はしばしば、自分の肉体とはズレたところに自分の精神があって、自分のことを後方やや上部から見下ろす感覚になっていました。
また、自分の体がどこにあるのかよく分からなくなって、皮膚に爪を立てたり、つねったり、叩いたりしていました。
今でもたまになります。

カウンセリングを受けている時に出会った本です。
自分のそういう状態は、研究されていることなんだなあ。と、感心しました。おかしな話ですが。
どうして、中身だけボロボロに壊れて、社会的立場を崩壊させず健常者のふりしてここまで生き抜いてしまったのか、わかりません。

 解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)


思い出しました。
もうひとつ、受けていた虐待。
原因不明の病気が続いたので、入浴しても、シャンプーを禁止されました。
疲れるからと。母が禁止しました。
年頃の女の子なのに、髪の毛がベタベタになって気持ち悪くてしょうがないので朝洗面所で無理矢理髪を洗っていると、当然、怒られました。
どうして分かってもらえないんだろう。女同士なのに。
医師にボヤいたら、スッキリした方がいいんだからシャンプーくらいしなさい。と言われました。
あたりまえー。
そしたら、数日に一度、母の行きつけの美容院でシャンプーだけしてもらいに行くという贅沢なことを暫くしていました。
わざわざ美容院に行くより自分で洗った方が楽なんですけど…
ホントに、娘のココロを理解する気のない親でした。

続きます。


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2015/02/12

メンタル#6…中学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
メンタル#5…小学生〜中学生時のこと
の続きです。

部活は1年で辞めましたが、そのときお友達になったMiちゃんとは、卒業まで結構仲良くしてもらっていました。
塾に通うようになったのもMiちゃんが通ってるから、そこに私も行きたい〜。と、これはお許しがもらえ。
一緒に服を買いに行って、おそろいの服を着たり。
(このときのお金どうしたんだっけ…親にもらえたんだっけ…)
なんかいつのまにか私がY君を好きだということが周知のことになっていて(私誰にもなんにも言ってないはずなんだけどなんでそうなったのかな〜。まあいいけど〜。って感じでした。)MiちゃんもY君のことを好きでした。
ライバルというか、なんというか、アイドルに対して一緒にはしゃいでいるような感じでした。私の方が断然ムッツリだったわけですが…
と、いうのも、この頃既に、自分の精神が乖離していることに気付き始めていたのです。
こんな私では、Y君につり合わないよ。

家では虐待に耐え。
学校ではいい子を演じ。
体が悲鳴をあげている。
夜眠れない。
常に体中が緊張している…いつ殴り込んでくるか分からないから…

2年生以降は、なんかずっと学級委員とか放送委員とかやってました。
学級委員の仕事は全然苦じゃなかったです。すすんではやりたくはないんだけど。学年評議会とか全校評議会といって各学級委員が集まって行事へのナンダカンダとかを話し合う会議がほぼ毎週ありました。
ここでは弁の立つ、頭の回転の速い先輩方と話をする機会となって私にとってとても楽しい時間でした。


2年生の時に、担任に呼ばれて、何じゃ?と思ったら、生徒会に立候補してくれと言われました。
3年生がほとんどの立候補者で、2年生が少なすぎて、2年生の担任たちが立つ瀬がないとかナントカ。
知らんがな。
「部活辞めたから暇でしょ〜。やってちょうだいな。」

たしか、書記と会計と、なんだかに、4人くらい立候補してたんだったかな?
そういうふうに前に出るタイプじゃなかった子たちなんだけど、内申点目当てなのか、まあとにかく微妙なメンバーが。。
これ、対抗馬に立候補したらわたし、たぶん、勝っちゃうよ…
自分で言うのもなんだけど、彼らより、私の実績のほうが群を抜いてるもの…

すごーっくめんどくさかったのですが、立候補を断ることの方がめんどくさい事態になってしまったので、絶対に落ちる枠を選びました。
副会長。2名枠に既に3年生3人が立候補。
ここに飛び込んでしまえ。
こうすれば、同級生を蹴落とすこともなく、当選してしまうこともない!!

応援演説をしてくれた友人や、投票してくれたみんなには悪かったですけど、落選してホッとしました。
でも、次点だったのです…
3年生1人を数票越えてしまったのです…おいおいおい…あぶなかった…


時系列は忘れてしまいましたが、一時期、Y君ではない男子と秘密の文通をしていました。
クラスは違うし、全然お喋りはしなくて、ただ単に最近クラスであった出来事とかを、わざわざ切手貼ってお手紙出してました。
自然に終了してました…
あれは何だったんだろうw


今思えばおそらく乖離状態が酷かったんだと思う、喘息とは別の体調不良が続きました。
もう私は家出したくてしょうがなくて、でも喘息が酷いから夜にどこかでフラフラしてるとあっという間に野垂れ死にそうだし、補導されちゃったらまた殴られるだろうし、親族のところに逃げるにも飛行機に乗る距離だし、完全に行き詰まっていました。
そのとき母がどこのツテだかビタミン剤の何だかにハマっていて、喘息に効くのだとか、なんだの、かんだのを、食後に手のひらいっぱい飲まされていました。
辛かった…
母は夜間救急に駆け込むとき以外は基本的に通院に付き添ってくれなかったので、1人で行ってました。
いつだったか、原因不明の体調不良が続き、血液検査したら白血球が異常に増えていました。
どこを検査しても何故そうなっているのかわからず。
黄疸も出ました。
あるとき医師に、ビタミン剤を毎日手のひらいっぱい飲まされてると言ったら「そんなもの飲まなくていい!病院で言われたって言って今日から飲むのを止めなさい!」と言われました。

いつだったか、診察のあと母だけが呼び出され、げんなりした顔で戻ってきました。
いろいろ思い出して整理すると、あれはたぶん、精神科の受診を勧められたんだと思います。
けど母は精神科に抵抗のある世代ですので、「娘がキ○ガイ扱いされた」と思ったみたいです。
キ○ガイ!キ○ガイ!!
と罵倒されることが増えました。
私は精神科に行きたかったです。隔離病棟に入院しちゃいたかったです。
強制入院させられるほど壊れられなかった自分が、偉いんだか、何なんだかです。

続きます。


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2015/02/11

メンタル#5…小学生〜中学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
メンタル#4…小学生時のこと
の続きです。

私は熱心な教育を受けたわけではないのですが、今思えば何故だか「いい子」「できる子」という洗脳を受けていました。
結構染まってました。
でも、塾や習い事をしてる子に勝てるわけありません。
習ってもいないのにピアノが弾けるわけありません。
見たことも聞いたこともない方程式を解けるわけがありません。
できないことにため息をつかれることが増えてきました。
だんだんその矛盾に嫌気がさしてきました。
音楽や絵画などに興味を持って、習いたいと言っても即却下されました。
時には罵倒されました。
「誰が金払うと思ってるんだ!自分で稼げるようになってから自分の金で習え!」
と、言われました。
思い出した。
「住まわせてやってるんだから家賃と食費払え!誰のおかげで生きてると思ってるんだ!」
と、殴られたのも一度や二度ではありません。
成人してからならともかく、小中学生にそんなこと言って、この人は一体何なんだろうと思ってました。



私が通っていた小学校は、転校したり私立中学に行かない限り全員が同じ中学になる学区でした。
この小学校メンバーほぼ全員プラス、ほぼ同数の生徒が近くの小学校から集まります。
なんかもういい子ちゃんするの嫌になっちゃったので、もう班長も学級委員もしないぞー。
と思ってました。

入学してすぐ、なんか、1校に1人代表が決められて、近隣中学の生徒たちと何か交流をする生徒を先生たちが選んだんだそうです。
私は第一候補だったらしいです。
1学年360人くらいいるんですけど…
でも、喘息で体が弱いので止むなく落とされたと担任がみんなの前で言いました。
知らんがな…

で、学級委員を決めるとなり。
他所の小学校からもお利口メンバーが来てるんだから、私がやる必要ない!
と思ってたのに、私になっちゃいました。
ああ、メンドクサイ…

部活は、母がテニスをやってたからというのでずっとやれやれ言われてて、なんとなく入っちゃいました。でも人間関係に行き詰まって2年生になる時に辞めました。
先輩とかは良かったんですけど、同級生の変な方のグループに入ってしまったのです。
まともな方のグループは同じ小学校出身の、前から知ってる子たちだったので、そっちにスルッと移りたかったのですが、うまくいかず。
このままここにいたらおかしな人間になってしまう!
と、朝早く顧問の先生の机に退部届けを置いておいたら速攻担任経由で呼び出されました。
「もうあんな変な人たちと一緒にいられないです…」
と、気付いたら泣いてました。

…なんだか、思い出そうとおもっても、もう、漠然としたことしか思い出せなくなってます。そうしないと生き抜いてこられなかったですからね。

家では母が、今思えば鬱状態で、朝起きてこないので自分でお弁当を詰め(レンチンポテトと卵焼きとわかめのサラダがあればじゅうぶんでしたので簡単。)帰ってきても母は動かないので塾帰りとかに何か買って帰らされたりしてました。
夕飯作れないなら作れないでそう言ってくれればいいのですが、台所は母の聖域なので、使わせてくれなかったのです。
朝のお弁当詰めはどうせ起きてこないので文句言う前に終わってますので。
じゃあ夕飯私が何か作るよ。と言うと「触るな!!!」と締め出されます。

何故って。
母は台所で煙草を吸っていたのです。
アコーディオンカーテン等々で完全に閉め切って誰も中に入らないようにしていました。
ニオイやゴミでバレバレですっての。
私の喘息が酷いので父が頑張って禁煙した(まあ、出張と単身赴任で全然家にいませんでしたが)のに自分が吸ってるのが後ろめたかったのでしょうかね。

お料理は教えてもらったことないです。
何かの時に、「おにぎりをつくる。」となり。
調理実習でおにぎりくらい作ってますから、できます。
なので自分でやろうとするのですが、
「ご飯があつあつのうちに握らないと固まらないわよ!」
「え〜、学校ではできたよ〜。火傷するじゃん。」
「お母さんたちは慣れてるから平気なの。あんたには無理!」
「なにそれ。おにぎりくらいみんな自分でできてるのになんで私はやる前から無理なの?」
「口答えするならやってみろ!(炊きたてあっつあつのごはんを手に乗せて)ほら、やってみろ!!」

虐待だあ。
ごはんが熱くて、なんかいろいろ悔しくて、ぽろぽろ泣きながらおにぎりを作りました。
みんなはラップとかで握ってるって言うよ。と言っても「それじゃおいしくならない!」と、よくわからない主張で、炊飯器をあけたばかりのごはんを素手で握らされたのでした。

「それみたことか。泣きながらおにぎり作ってんの、ばっかみたい。」

この人はそんなに私が嫌いなのか。と思いました。

私が見たいテレビは見せてもらえない。
火サスとかエロいシーンがあるし面白くないので部屋に籠ると「リビングにいなさい」と言われ、見たくもない濡れ場を見せられ、母がテレビを見ながら寝てしまったのでチャンネルを変えると「見てるのになんで変えるんだ!」と怒られる。
これ見たくないからいい。と部屋に帰ろうとすると「一緒に見ようよ〜」

全然意味が分からない。

母がテレビを見てない時に私が見たいテレビを見てると殴られる。

全然意味が分からない。

家賃と食費払え!と殴られる。
べつにあなたの稼いだお金で食べてるわけじゃないじゃない。
お父さんのお金だし、だいたい、毎日ステーキとかお刺身とか豚カツとか唐揚げとか天ぷらとかメインメニューが1日に3つもあるような食事いらないし、それの残りが1週間くらい続くのもうんざりだし、家賃払えって義務教育中の子供に何言ってるんだろう。


そんなストレスが溜まってたんだと思います。
いつ頃からか、よく吐くようになりました。
多くは、呑気症によりゲップがたまり、それを吐き出すだけなのですが、しばしば嘔吐するようになり。
喘息っぽい何か気管支の不調で痰がしつこいのでそれを出したくて吐いたり。
中学校から帰宅する時、家に着くまでのあと20歩くらいのところで胃液が逆流してきて耐えきれず植え込みに吐き出したり…

今思えば、家に帰るのが心の底から嫌だったんですね…

続きます。

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2015/02/01

幼年期の終わり

こんばんは。

私のメンタル歴の話はちょっとお休み。

今日、夜明け前に仕事現場へ向かう電車を待つ駅舎のなか、スマホが表示した速報に体中が凍りつくような気持ちになりました。


まさか。

まさか。

まさか。

私はあまり政治・国際的な話はしたくないのです。
私はあまりにもその分野に無知なので、無知なくせに今分かってるつもりのことだけをひけらかして旗は振れないと思っているのです。
だけど。
だけど今回は違いました。

知らない方です。
親族でもありません。
けど、私の親族には同音異字の人がいます。
それもあり。
それまで全く知らなかったこの方のこれまでの行動、そしてお写真などを見て。
この方はきっと帰ってくる。
帰ってこなくてはならない。
そう想っていました。


私は、衝撃的な経験やヴィジョン、伝聞を自分のなかに取り込みすぎてしまう癖があります。
現実に目を向けなくてはいけない。
私はそのせいで自分の健康を損ねて身近な人に迷惑をかけがちなので、今は、敢えて、映像に向き合わないことを選択しています。

なので、公開されたという動画+ブラックアウト+静止画は見ていません。
仕事中に事務所のテレビで見たあれは、その一部だったのかもしれません。
けど、帰宅しても、追いかけないことにしました。
しばらくはテレビニュースをじっと見ることも控えようと思います。

そうしないと、私が勝手に一人で潰れてしまうから。

映像は見ないように気をつけても、文字は追ってしまう。

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どうして?
どうしてこんなにわけのわからないことになってしまうのでしょうか。
かつて栄えて滅びた文明の存在を知ってる今の地球人類なのに。
戦争をしないと決めた国なのに。

わけのわからない組織に自国民が捉えられていることを知りながら、彼らを刺激する発言をした人。
表沙汰になったら速攻帰国した人。
帰国しても新年会に参加して飲み食いしてたらしい人。
捉えられた方のお母様との面会を拒否したらしい人。

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どうしてね。
人間は、世界を牛耳ってるわけではないことを、忘れちゃうんでしょうか。

人間世界が今ここにあるのは、宇宙のなかで起こっているとんでもない偶然のおかげなのです。
ちょっと環境が変われば、氷河期。
または、その逆。

ちょっと大きな隕石が地球にぶつかっちゃったら、国がいくつか消えるでしょう。
少し前に、ロシアにちょっと大きな隕石が落ちました。
あれが日本に落ちてたら、どのくらいの市町村が消えていたでしょうか。

ほんの少しの違いなのです。
ほんの少しの違いで、ロシアの方には被害がありましたが、たまたま人が少ないところに落ちただけ。
隕石の落下地点が予測できたところで、誰がどうそれを、地球に影響無いよう破壊できるでしょうか。
自力でできないなら、力のある国が助けてくれるようにお願いするか、お祈りするしかありません。
どれほどの国に、その力があるでしょうか。

地球はひとつ。
一カ所が汚染されたら、完全ブロックなんかできるわけがありません。
地球は一日一回転してるんです。
みんなが見てる空は、ひとつなんです。
ぜんぶ、つながっているんです。
大気圏まで包囲するほどの完全密閉ドームもなしに、どうやって完全ブロックするつもりなのでしょうか。
そんなことも忘れる人。

国民の安全を絶対に守る。
みたいなことを言ってたはずですが、何故そんな人が、何ヶ月も前から国民が異国で窮地にいて家族が脅迫されているのを知りながら、脅迫者を刺激するような言動をするのでしょうか。
窮地にいる方の母親に会って、勇気づけることさえできない人が、何をのたもうているのでしょうか。

きもちわるい。
心の底から、きもちわるい。

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私の愛読書。
A.C.クラーク
「幼年期の終わり」

   

SF好きには最早古典ですが、決して色あせない、すべての人に読んでほしい本です。
あるとき地球にやってきた「上帝(オーバーロード)」
彼らは何故、何のために地球にやってきたのか…

SF好きな人にはもはや常識のようなこの物語。
すべての人に読んでほしい。
我々がここにこうして生きているのは、何故。誰が?

Kindle版にもなってます。



なんだかアフィ目的のエントリみたいになってしまいますが、ほんとうに、すべての人々に読んでいただいて、今自分がここで生きているのは、どれほどの偶然なのか、どれほど拙いものなのか、どれほど小さく、どれほど貴重で、どれほど奇跡なのかを。
皆で、自覚をしましょうよ。

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私はまだ、文字の情報だけなのに、悲しみを抱えきれずにいます。
きっと今夜、夢にうなされると思います。
けど、私の願いは「夢オチ」ですが、その映像は、夢なんかでオチなくて、それこそがただ唯一の現実なのかもしれない。
現実を受け止めるには、現実として配信されたというそれを見なくてはならない。
そして判断をしなくてはならない。

現実だと判断したら、いや、しなくても、私はしばらくうなされるでしょう。
それは、受け止めなくてはならないもの。

受け止めきれないと判断して見ないのも、ひとつの、強さ。
けど、心は、配信された現実の映像があるのなら、それごと受け止めたい。
それは私を潰すかもしれない。
私自身を潰さないための選択。それこそが「強さ」では?

これは、ただひたすらに、エゴなのかもしれない。
自分可愛さになんとなく悩んで、そんな気になってるだけなのかもしれない。

いづれにせよ。
あれほどの苦しみに遭った人がいる。
愛する人があんな目に遭ったことを知り、苦しんでいる人たちがいる。
私の血縁ではなくても。
知らない人でも。
それは、生きるもの全てにとってのあまりにも惨い苦しみ。

生きるものとして、私はいつまで目を反らしていよう?
私はいつまで、他人事のつもりでいよう?

そうして、どういう方法で反旗を揚げようか?




幼年期はもう、終わりにしようよ。




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2015/01/29

メンタル#4…小学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
メンタル#3…小学生時のこと
の続きです。

前回のエントリ、長過ぎましたね…
ざっくり書いたあと手を入れるとどうしても長文になってしまいます。気をつけます。


今、家族のみの席でネタとして話しても母は「嘘だ!」と譲りませんが、小学4年生くらいにして、私はすさまじい量のお使いを頼まれていました。
私は一応いい子ちゃんだったので、お母さんの役に立てるなら。と、できる自信がないことでも、困ったら誰かに聞けばいいや。と、まあ結構なんでもやってました。

わたしは痩せっぽちだったのもあって、太るようにというのもあり、牛乳を1人で毎日1リットルくらい飲まされてました。
水代わりですね。
毎日か、2日に1回は4リットル分を買ってました。
関西の小学校にいるとき、小学生の足で10分くらいかなあ、歩くところにあるスーパーへしばしばお使いを頼まれ。
牛乳4本、お肉を何か適当に。じゃがいも。なんとか。かんとか。

これ毎回。

今だから思うんですけどね、小学生の徒歩のお使いに、牛乳4本は無理です。
1リットル4本ですよ。
それだけで4キロですよ。

袋詰めして持ち上げた時はいけるとおもうんです。
でも、どんどん重くて辛くなってゆくんです。
だんだん、10歩ごとに休むようになります。
まだ半分だよお…ぜえ、ぜえ。

お肉は、母はメニューから素材を考えず、素材からメニューを考える人なので、自分が買い物に行きたくないときはよく「なにかお肉」いう指示でお使いに行かされました。
当時、自分の一ヶ月分のお小遣いが500円あったかなかったかくらいなので、適当に買ってこいと言われても1パック500円を超えるともうビビってしまうので、私が買ってたのはいつも鶏胸肉でした。
今でも鶏胸肉ばっかり買ってます!

父はなんだかんだでほとんど家にいなかったので子育て完全に他人事でしたが、私が成人して精神崩壊して、手首切ったりODしたり死ぬ死ぬ騒ぐようになってから慌てて私の話を少しは聞くようになりました。

先日父に、
『関西にいた時に、お使いのたびに牛乳4本頼まれてた。
無知な子供だから何も考えず引き受けてたけど、あまりにも重たくて毎回くじけそうだった。』
と話したら仰天していました。
牛乳4リットル、大人でも持ちたくないのに、そんなのやらせてたんか…
「そら大人でも嫌だわ!!」
「でしょ。やってたのよ。大変だったんだよ。」

もう何もかも遅いですけどね。
何もかも。

そして他人事のようにしていた父は、私の体をまさぐりまくり、いやがるのをくすぐりまくり、そのせいで私は喘息の発作を何度も起こしました。
もちろん父は今でもそれを反省する気はありません。
「だって構いたかったんだもん。親心だ!!あんたには分からん!!」

だからって喘息の発作を起こすまでやるのはまちがってるし、そのせいで男性不信になったのをあのひとは理解していません。


関東の学校に戻り。
私がいなかったのは2年ちょっとだけですが、クラスが増え、クラス替えもあり、引っ越して行っちゃった子、知ってたけどはじめて同じクラスになった子、仲良しだったけど今度は違うクラスの子、などなど。
お友達作りには困らなくて、前から知ってた子と改めてお友達になれたり、結構楽しく忙しかったです。
3学期の途中という変なタイミングで戻ってきましたが、学年が変わったらまた班長とか学級委員とかやらされてました。

6年生の時の担任が、転校前から嫌いだった先生でした。
いやだな〜。と思ってたら、ホントに、とんでもない先生でした。
このネタだけで本が一冊書けるくらい無茶苦茶でした。
私はちょっとリーダーシップがあったらしいのですが、塾には行ってなかったし、中学受験なんてモノの存在も知らないくらい特に勉強をしてない子供だったのですが、なんかそれなりに勉強ができたりしてたらしいです。当時は。もう見る影もないですが。
んで、私が何故か解けちゃったテストの問題を、難関校に中学受験する子が解けなかったらしく、担任に怒られてました。
そこまではともかく。
「Namiも解けてるのになんであんたができないんだ!!」

…え?
いま何か言った??

彼女はだからと言って私をいじめることはしませんでした。
なんかよくわからない不思議なサークル的なものを彼女が作ってて、テストされて、私は不合格になったらしいです。
なんかそのテスト?のだいぶのちに、私にそれを打ち明けてくれましたが、全然意味が分かりませんでした…。お勉強させられてる子って、考えてることの次元が私とは全然違うんだなあ…そのサークル的なもの、意図が全然分かんないから、合格しなくてよかったわ…
みたいな。


6年生のその無茶苦茶な担任のとき、ある男の子が登校拒否するようになりました。
私が戻ってきた時に初めて同じクラスになった子で、私は結構楽しく普段お喋りしてたし、戻ってきた当時何かと関西の学校との違いを比べる発言をしていた私に
「だったら関西に帰れよ!」
と彼は言いましたが、私は

『ああ、そうか、こういう話し方をすると、こっちの学校を否定してるように聞こえるよな。こういう言い方は今後止めよう。』

と気付きました。
この点は、本当に彼に感謝をしています。
彼がああやってバシッと言ってくれなかったら、私はズルズルとああいう言動を続けていたと思います。

そんな彼が学校を休みがちになり。
ある日、クラスの女子は自習になり、男子は全員、隣だったかの社会科資料室に呼ばれました。
まともじゃない状況。ってか、この担任のもと、まともな状況だったことは皆無ですが。
私はその時も班長だか学級委員だかをやっていましたが、これはたぶん男子が酷い目に遭うぞ。と思い、自習している教室を抜け出して、社会科資料室のドアの下の方の空気穴のところから四つん這いで中をのぞきました。
(女子たちは多分、そんな私を見て見ぬ振りをしてたんだとおもう。笑。)

そしたら。
20人くらいいる6年生の男子。
まだ細くてちいちゃい子もいます。
全員並んで正座。
それを端から順に担任が平手打ちしていきました。

ありえない。
ありえない。

登校拒否しちゃった彼をからかってるのかいじめてるのか、そういう子もいますが、明らかに無関係な子もいるのに、男子というだけでまとめて全員平手打ち。
ありえない。

私はそっと教室に戻って、一人で怒りをフツフツさせていました。
女子たちはたぶん私の様子で、何が起きているかを察したと思います。

男子たちが戻ってきて。
私は同情と怒りの気持ちをどうすればいいのかわからず。
男子たちは誰も何も言わずに黙ってました。涙目の子もいましたが何も言いません。
言いようがないですよね。
私も、端からぶたれているのを覗き見してたとは言えないので、誰かが何かを言い出すのを待っていたのですが、誰も何も言わないので、私も聞くことができませんでした。

それから15年後くらいに、当時の同級生の男子にその時の話を聞くことができました。
登校拒否した子をみんなでいじめたのは本当だそうです。
最初は冷やかしとかからかいだった。そしてそれが徐々にエスカレートしてゆき、止めなくてはと思っても、もう止められないくらい勢いがついてしまって、いまだに後悔をしていると。
登校拒否してた子とは、私は中学でも同じクラスになって、隣の席になったり、たまたま同じカンペンケースを使ってたり、小学校の最後の2月には、チョコ頂戴!ってずっと言ってたので、私には本命もいなかったもんだから、近くの酒屋で買ったガーナチョコレートをあげたくらい結構仲良くしてたんだけど、中学2年生のとき学校に来なくなったまま転校してしまいました。


小学生の時の後半の記憶は、トンデモ教師への怒りと、トンデモ教師の罵倒のなかでみんなでどうやって生き抜くかを考えることでアタマがいっぱいだったのか、家庭でのことはよく覚えていません。
覚えてることのひとつは、そんな嵐のような日々のなか、誰かが、YくんはNamiちゃんのことが好きなんだよ。と言ったことです。
小柄で坊ちゃん刈りだけど、塾に行っててスイミングスクールにも行ってて、スポーツなんでもできて、勉強もできて(よくわかんないけど学校の勉強しかしてない私よりとっくに先に各教科を理解してることには気付いてた)当時はたしか私より小柄だったけど文武両道でおとなしそうな彼が何で私みたいな口やかましくて痩せっぽちで色黒で、走ればビリ、ドッジボールは逃げるだけ、投げても地面に落ちるだけ、給食食べきれずいつも一人で居残り給食の私なんかを好きになるんだろう。と不思議でした。

振り返ると、この時点で私自身も登校拒否になったりしておかしくなかったんですよね。
あの時の担任は児童たちの前で堂々と「良い子」「並の子」「ダメな子」とカテゴリ分けをして、良い子はおだて、並の子は顎であしらい、ダメな子は罵倒しまくってました。
ありえないです。
「良い子」カテゴリにいた私は反骨精神旺盛なタイプでもあったので、理不尽な指示のもとリーダーをさせられるのが嫌になって、指示をほっといたことがあります。
そのとき
「ふーん、Namiはもうみんなを引っ張ってくのやめるんだ。」
とクラス全員の前で言われ
「はい。」
と答えました。
男子を端から順に平手打ちしたみたいにするならやりやがれ。
と歯を食いしばって担任を睨みつけて待っていましたが、
「じゃあもう頼まない。」
と言われて終わって拍子抜けしてしまいました。
平手打ちされたらその足で職員室に行って全部わめいて、そのまま校長室に乗り込んで行こうと思ってたんですけど、お釈迦になっちゃいました。。。

続きます。


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