ゴールデンウィークって私の専門職種は案外暇だから。
と、ゆっくりしてたら、やっぱりいろいろ考えてしまって。
そんな話を書きます。
今私は、実家のある団地の、実家とは2棟離れたところに一人で暮らしています。
私は母との折り合いが悪く。
折り合いというのか常識とかいろいろがあわず。
まあたぶん母は病気なんです。
前にも書きましたが、発掘する気力がないのでリンクは貼りません。
母は転勤族の妻になっちゃったからか何だか知りませんが、子育てが余程負担だったようで、長女の私は毎日罵詈雑言。
この世の恥。
今すぐ死ね。
こんな恥さらし他所に見せられるか!
きりがないのでこれくらいにしておきますが。
大人になってからは乗り越えられるであろう罵倒も子供には絶望的でした。
そして父も、娘の体をまさぐる変人。
どこにも居場所がない。
親戚は飛行機か新幹線に乗らないと、いない。
小中学生の頃、私はお利口さんカテゴリだったようです。
学級委員とかをずーっとやらされてて、そうすると単独行動しないといけなかったりして、そしたら、トイレも一緒に行くのがお友達。な女子中学生。
namiちゃんに裏切られた!
と思うようで、口きいてもらえなくなったり。
私はたぶん、誰かに大切にされるとか、大切にする心が今でもないんだと思います。
なんで口きいてくれなくなったんだろ。
ま、いいや。さよなら〜。
で、いつもクラスをまとめる役割でしたが、特定の仲良しは、いなかったと言っていいかもしれません。
特定の仲良しはいなくても、クラスの意見をまとめたり、学校全クラス代表の話し合いの結果を報告するとか、それなりに忙しかったんです。
私は当時考えたこともなかったのですが、内申点狙いで生徒会に出張ってくるのが、いるんですね。
『生徒会選挙の2年生からの出馬が少なすぎて。Namiさん暇でしょ?出てちょうだい。』
と、担任に言われ。
私は入った部活の人間関係構築ルートをとんでもなく間違えてしまって、2年生になる時に部活をやめて帰宅部になったんです。
『Namiさん暇でしょ〜。2年生の生徒会立候補者が弱いのよ〜。namiさんだったら絶対受かるから立候補してくんない〜?暇なんでしょ〜。』
絶対やりたくないので頑張って落ちました。
2枠のうち3先生が3人立候補している副会長に立候補。
だって、同学年だけで競ってる役職に立候補したら、わたし、勝つ。
絶対勝っちゃう。
やりたくないもん。
副会長2枠のうち3人3年生。
ここなら2年生は落ちる。と思って。
書記や会計なら絶対行けるのに!と教師に言われても、たぶん私が勝っちゃう。
彼らは内申目的かもしれないけど、生徒会やりたくない私が蹴落としても嬉しくなーい!!
3年生1人を何故か抜いて次点で無事、落選。
ほっとした。
学校中に嘘をついたことに、どう謝ればいいのか、わからなかった。
過去のエントリを探して読んでくださった方、ありがとう。
すでに読んでた方。
お暇なの?(失礼な)
私にとって誰よりも大切なYくん。
勉強も運動もできて、ティーンズ向け雑誌に「バレンタインにチョコレート64個もらった先輩」と写真つきで載っちゃったYくん。
(あれ載ったの本人知ってるのかなあ?64個は盛りすぎだと思うけど。私は渡してないよ。)
中学校卒業までしか知らない。
もう30年も前のこと。
今の私にあの歳の子供がいてあたりまえなほど、当時は幼く。
けれど私は生きていることを実両親に否定された、この世の恥な生き物だから。
もしうっかり、Y君が私を好き。ってことになったら。
私のこの世の恥人生にYくんを巻き込んじゃいけないから。
なんにも言わなかった。
Y君が近道するために通っちゃってた植え込み。
公園の街灯の下、下手すぎるテニスの練習をしてた私の反対側でY君がリフティングの練習をしていた場所。
制服もなにもかも変わってしまった母校。
今でこそ微笑ましく聞く中学生の恋愛事情。
命短し恋せよ乙女。
なにもかもが昨日の事のようで、なにもかもが四半世紀以上前のことで。
植え込みの柵をくぐってたY君が今でも見える気がするのに。
いないんだ。
ここにいたのにね。
この土を踏んでいたのにね。
高校入学時に、地方へ行ってしまった。
家族はみんなそこにいるのに、Y君だけがいない。
(全寮制の進学校とかではない。たぶん。)
Y君の近しい友達のだれが聞いても理由を話さなかったそうだ。
Y君はその悲しみを卒業文集に残していた。
悲しいけど、カッコつけて平気なふりをすると書いてあった。
私は今その真相が気になって仕方がない。
もし今後再会する機会があっても、きっと彼は話さないだろう。
15歳の少年がどれほど悲しんだのだろうか。
なんて残酷な大人たち。
人の心配してる場合じゃない。
よくあのキチ親のもと生き延びたな。わたし。
うん。生きてるだけ。
死んでるみたいに生きてるの。
笑顔はみんな作り物。
ひとりで生きて行くための味方をつくるためのこと。
誰も私の根っこに興味はないから。
理想と違えばみな去ってゆく。それだけのこと。
Y君は、私の理想の部分だけ見ていなくなった。
私はボタンをもらいに行かなかった。
思い出だけでいい。
当時は本当にそう思ってた。
Y君の第2ボタンだけ残ってると、何人もの友人が教えてくれた。
いいの。
Y君にとっての特別な誰かになる資格は私にはないから。
私はこの世の恥だから。
40歳を過ぎたから思う。
なんなんだうちの親ども。お前ら児童虐待でつかまっちまえ!
児童虐待の時効って何年?
家族はいらない。
けどちょっと寂しいから、犬飼いたい。
だけど今の仕事の仕方じゃそれも無理なんだ。
10年くらい前に、同窓会という口実を使って(嘘でした)卒業文集に載ってるY君の家に電話した。
たぶんお母さんが出た。
Y君の名前を出すと、こちらが驚くくらい狼狽していた。
「えっと、あの、いえ、あの、えっと」
「そちらにはいらっしゃらないんですかね?」
「はい!!!」
差し支えなければ連絡をもらいたい。と、私の電話番号を伝えた。電話越しでもメモしてないのは明らかだった。
「あの、この番号をどちらで」
「小中の卒業文集に掲載されていた番号へお電話いたしました。失礼いたしました。」
自分の息子宛に電話がかかってきて、そこまで狼狽する親がそうそうあるだろうか。
女からだから?
わからない。
15歳で悲しみを抱えたY君。
気がつけば虐待児で、とっくに狂ってた私。
私に家族を持つ資格はないんだよ。
優しい思い出は、Yくんのことばかり。
シャイな中学生になったYくんは、家の近くで2人ですれ違う時も無言。
学校で顔が見える距離にいたら、こっちを見てる。
私はこの世の恥の生き物だから、私を好きにならないで。
私はYくんを好きだけど、私はこの世から抹殺すべき恥の骨頂である生き物だから。
私を好きになっちゃいけないの。
第2ボタンだけ残ってるよ!と、何人もの友人が私に伝えてくれるほど。
私は何も言っていないのに、私がYくんを尊敬していることは近しい友人たちには知られていた。
けどだめなの。
...当時の中学生男子は自分から「僕の第2ボタン受け取ってください!」なんて、言えないものね。
私がまともに愛情を受けて育っていたら。
卒業したらどこに行ってしまうの?
お手紙を書きたい。
ボタンを、ください。
きっとそう言えたでしょう。
今すぐ死ねという言葉が子守唄のようだった私には、できなかった。
25歳前くらいで私は死ぬんだろうなと思ってたら。
40歳とっくに過ぎちゃった。
ボタン、もらっておけばよかったなあ。
私のロザリオになったのに。
友人たちの子供、15歳の実情。
男の子だってまだとても幼いんだ。
そんな幼い中、自分の行く先を誰にも教えなかったYくん。
虐待されてたわたし。
けど、今のYくんにはきっと女房子供もいるんだよ。
会わずに妄想だけ見ていたほうが幸せかなあ。
辛くて苦しくて、学校を休みがち、通院で遅刻しがち、気が強すぎて問題起こしがちな私を、時間の限界が来るまで、クラスが違うのに見てくれていたのはYくんだけだった。
『半分、青い。』
のなかの、鈴愛にとっての律は、私にとってのYくんではない。
けれど、そっと。
私が見えなくなるまで見てくれていた。
家に帰ったら罵詈雑言と殴る蹴るだった私は、委員会活動と塾を理由に家にいる時間を減らした。
委員会活動をしながら、Yくんの部活動を見ていた。
塾は曜日が違ったんだけど。
お互い急用とかで違う曜日に変更した時、帰りの自転車で、男の子グループと一緒に近所で駄弁ってるのを見守るのが幸せだった。
14歳とか15歳。
大人たちは、どうしてこんなにも幼い子供達をこんな目にあわせたのだろう。
私は子供はもう持てないから。
理想だけで言う。
子供の自己評価を下げて、自分は人間の屑と刷り込む子育てをするほど、私の親は愚かでした。
会いたいなあ。
あそこでリフティングの練習してたよね。
あそこで植え込みに踏み込んでたよね。
30年前の幻が。
私を捉えて離さない。
Yくん。
幼い優しさ。
幼い孤独。
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