2017/02/13

おもいでばなし。つづきの5。

思い出話を続けます。

私は中1で部活を辞めて、なんかよくわからない病気になって、欠席が増えました。
持病の喘息もあるのですが、月に一度は風邪をひくのと、原因不明の白血球増加、原因不明の黄疸など、いろいろありました。
今だから精神科の医師に聞いて分かりますが、私はあの頃明らかに精神を病んでいました。
どうやら、通ってた病院から精神科の受診を勧められたっぽいのですが、私の父母世代にとっては、自分の子供が精神病院に行くなんて恥!ありえない!みたいな感じで。
診察後、母だけ呼ばれて、戻ってきて
「精神病院に行けって言われちゃった。留年して入院する?」
と、言われました。
入院はしたかったです。
心の底から。
親と離れられるなら今すぐにでも入院したいとずっと思っていました。
児童養護施設でもいい。とにかく親がいないところで生活して、今の学校に通いたい。
中学校留年は、嫌だな...
親から離れた施設に入って今の中学校に通いたいな...。

「学校には行く。」

それしか言えませんでした。
本当のことを言ったらまた殴られて、存在全否定されて罵詈雑言、大変なことになりますから。

白血球増加は、内臓で何かしらの問題があるのだろうといろいろな検査をされましたが、何も見つからず。
毎週、火曜日だったかなあ。朝一で病院に行って、血液検査されて、遅刻して授業に加わる日々が、数ヶ月ありました。
教師には周知してもらってたので、2時間目くらいの途中ににヌルッと教室に入っていました。
検査とかの事情によって決まった時間に学校に行けるわけではなかったのですが、病院の受付開始時間に行くには、登校時間に家を出てもちょっと早くて。
いつも通りに支度を済ませて病院に向かうまで時間があったので、自室のブラインドの隙間から外を見ていました。
Y君が通るからです。

うちは谷間の団地だったので、小学校も中学校も直線距離は近いのですが、谷を登らないといけなくて、ショートカットのルートがありませんでした。
私とY君は、逆の方向から谷を登るルートを選んでいました。
Y君は、私の家のある建物の前を通るルートを使っていました。
私が普通に登校したら、すれ違うルートでした。
(近所で行き先同じなのに逆方向の登校ルートって、今思うと不思議だな。)
何時にそこを通るのかは分かっているので、暇を持て余しながらブラインドの隙間からY君が通り過ぎるのを見るのが週に一回の楽しみでした。
お花畑な私のアタマ。
私がブラインドの隙間から見てるのに気づいて、こっちを見た気がする。
それを感じて、元気が少しだけアップしました。

病院の診察を終えて、次の授業との合間の時間に学校に着くのがベストタイミングでした。
シレっと2時間目だったか3時間目だったかの授業の頭から「さっき来ました〜!」と言えるのが楽。
そして、そのタイミングだと、Y君のクラスの男子が体育の授業で昇降口から外に移動するのとすれ違えたのです。
Y君のクラスの社交的な男子の中には
「お!? namiさん今来たの?遅刻かよ?」
「うん、最近は病院に通っててね、この時間になっちゃうの。」
「そうなんだ。早く元気になれよな!」
「ありがとう。(^ ^)。がんばる。」
そんなフレンドリーな子もいました。
Y君はそれを少し離れたところから見ていました。
午前中に2回、Y君の顔が見られる。
幸せでした。
唯一の心の拠り所でした。
一言も言葉は交わさないんだけど、ちゃんと私のことを見てくれているような安心感がありました。

次くらいでしめます。


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2017/02/12

おもいでばなし。つづきの4。

四半世紀前の思い出話。
まだ続きます。

私は中学生の頃まではまあまあ勉強ができていたのですが、塾に行ってる子と比べると差があるなあと思ってきていました。
うちは父がバリバリの理系なので、教えてもらおうと思って聞いても「なんでこんなもんがわからんか!」とぶっとばされたり(わかんないから聞いてるのに...)「おっぱい大きくなったか」と胸を弄られたりするので父のことが大嫌いになりました。
それもあって男性不信になったのですがその話はまたいつか。

で、私も塾に行きたいと言い。
近所の子とか、大勢が行ってたから許してもらえたのかなあ。Y君も通ってる進学塾の入塾テストを受けて。Y君と同じレベルのクラスに合格しました。
女友達と一緒に通って、塾の行き帰りにお喋りするのが楽しみだったので(オイ、勉強は...)しかもその子...Mちゃんは(も)Y君のことが好きだったので、放課後の唯一の楽しみとして通塾していました。
Y君とは違う曜日だったのですが、都合によって同じレベルの違う曜日のクラスに行くこともできました。
Y君会いたさに他クラスすることはありませんでしたよ!私はそんなマメな女じゃありません。

で、女子には延々女子トークがあるように、男子にも延々男子トークがあるのでしょうか。
Y君が塾に通う曜日、男子たちもチンタラと集団で帰宅します。
当時は最寄りにバスが通っていなかったので、ほぼみんな自転車です。
男子軍団の中、Y君は中心人物ではなかったのですが、いつもなんとなく群れの外縁にいます。
そのときだったか、別の休日だったか。
あれ?
と思ったことがありました。
バッグです。
あの頃の中学生男子の私用バッグって、なんて言ったらいいんだろう。
Y君が持っているのとはとにかく違ったのです。
200mくらい離れたところから見たものですが、Y君は、黒の、たぶん合皮の、A4サイズくらいのクラッチバッグを持っていました。
今でこそクラッチバッグはおしゃれアイテムかもしれませんが、当時の中学生男子が好んで持つものではありませんでした。
あれ?
お父さんのを借りてるとしか思えない。
あれ?

その疑問は、修学旅行のときに更に明らかになりました。
学校的に過去に何かあったらしく、校外学習という名の修学旅行でした。
私たちの母校は校庭が校舎より低いところにありました。
校庭に一旦全員集合してからバスに乗るために階段を昇るのですが、私のクラスより先に昇ったY君のクラスの中に、明らかに浮いてるバッグが。

...小学校の校外学習のとき、いわゆる、昭和後期の小学生がキャンプで背負っていく多機能大型リュック。というのがあったと思います。
パステルカラーの子供らしい色の無地やチェックやツートンで、メインと、左右に四角く出っ張ったサイドポケット、メインの下部にはA5サイズくらいのポケット。
私はたしか小学生の時、白と薄緑のチェックのを買ってもらいました。
(コールマンとかアディダスとかがお手頃価格の子供用バッグを出してなかった頃だと思います。なんか総合スーパーで売ってるやつ。)
私はたぶん、九州への帰省にも使ったと思います。
中学校の修学旅行は、私はどのバッグで行ったか完全に忘れましたが、下着と肌着と寝巻以外は制服で過ごす2泊3日でしたので、化粧道具もないし、簡素なリュックサックでした。
ボストンバッグの子は、いたかなあ...。いたかも。
今現在大荷物で、いつでも一週間くらい泊まれそうなバッグを担いでまわってる私ですが(仕事道具だい!)結構簡素な荷物を、黒の合皮のリュックに入れてました。
今思えばすっごい軽装だったなあ。何持って行ったんだっけ。

自分のクラスが進む順番を待ちながら、先行組を見送りつつ...

...今、バスに向かって階段を昇っている、小学生が持つような白と水色のリュックサックを右肩に乗せて昇って行くのはY君...
黒の学ラン、紺ブレ女子がほぼ全員黒いバッグで進んでいく中、小学生が使う水色のリュックサックは目立ちました。

...え?
...と、いちばん思ってるのは本人だろうな...
どうして?
お姉さんと妹がいるのは知ってる。お姉さんがいくつ上なのかはわからない。
中学生男子が学ランでこのリュックで修学旅行に行くのは浮くって、分かってるおうちのはず。
学習塾やスイミング、その他いろんな課外活動をさせてるおうち。だから団地の子供会に参加してなかったはず。お金がないという理由じゃないはず。
何かが起きている。
...何が??

意を決して聞いたところで、家庭の悩みが原因で得体の知れぬ病気をしまくってた私が解決できることではない。答えてもらえたところで、私の好奇心を満たす以上のことはできない。
けど...

Y君がどんな想いであの修学旅行を過ごしていたのか。
もう、想像すらできない年月を生きました。


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2017/02/11

おもいでばなし。つづきの3。

四半世紀前の思い出話をしています。

中学校は、私もY君も公立中学校に進みました。
Y君の家はどうか知らないけど、私は中学受験の存在を6年生の3月まで知らなかったので、引越し以外で違う学校に行くお友達がいると気づいてませんでした。

私たちは団塊ジュニア世代なので、中学校のクラス数はmaxでした。
私たちの小学校からは、公立中学校に行く人は全員同じ中学校でした。
近隣小学校から半数と、別のところからは3分の1くらいかな。合流して、9クラスありました。
クラス替えは1年から2年になるときだけ。2年から3年はクラス替えはありませんでした。
私とY君は中学で同じクラスになることはありませんでした。
2年3年の時、隣のクラスになりました。

1年生の時。
お掃除の時間に割り振られるエリアはたしか1年間固定だったと思います。
クラスの半数は自分の教室内。
何人かは、理科室とか技工室とか他の教室。
単独行動させてもちゃんとやりそうな私のようなタイプは、ひとりでエリア担当させられていました。
1年生の時に私が担当させられたのは、体育館へ行く通路の一区画。
ひとりかよ!
あたしひとりかよ!
なんだよこれ!みんなは大勢で仲良くやってるのに!!
と、配分の理不尽さに無言でぶーたれていたら、校舎側の一区画を担当するのは、全然違うクラスのY君ひとりでした。
えええ〜!
4組と9組がなんで隣なの!
いいけどさ!

少し話は戻って。
私が小学生の頃は、卒業するときに「サイン帳」を集めるのが流行っていまして。
A6サイズより大きいくらいのバインダーに、写真を貼るところとか、自己紹介とか、メッセージを書くところがあってね、卒業前にクラスのみんなに配って書いてもらって、マイアルバムにするんです。
Y君はちっとも書いて返してくれなくて。
小学校卒業するまで「サイン帳書いたのちょうだい!」とずっと言っていたのですが、なんかもう虚しくなっちゃって。もらえてないのは私だけじゃなくて誰にも渡してないっぽかったし、中学生になっちゃって、お掃除が隣のエリアになったものの、いまだに「小学校の記念のサイン帳!何か書いて早く返して!」と言い続けるのもバカらしくなり、言いたいけど、言うのをやめました。
やっぱりY君はまだ子供だったのかなあ。
私がまた「サイン帳!」と言うのを待っていたような気配は少なからずありました。
小学生の延長をするのがバカらしくて、けど、シャイなんだか人見知りなんだか(今更...)ムッツリなんだか分かりませんが、Y君エリアの砂埃をこっちに吹っ飛ばしてきたり、あら、あっちはもう終わったんだ〜私も終わるよ〜と思って道具を片付けていたら、私エリアに砂埃と綿ぼこりの山がこんもりとできていたことがありました。
おい。
言ってやろうかとなんども思いましたが、この人は私がこう言うのをわかってやってるから、言っても無駄だし、教師の耳に入る大事にしてもとてつもなくくだらないので何も言いませんでした。
今思えば、言い方のバリエーションはあったんですけどね。
当時の私にはできないことです。

続きます。

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2017/02/10

おもいでばなし。つづきのつづき。

四半世紀前の思い出話を書いています。

出戻ってきて、トンデモ担任になって、今だったら裁判沙汰になってるであろうことも多々起こり。

私は酷い喘息持ちでしたので、体育の授業は内容や体調によっては見学が多かったです。
みんながマラソンさせられてる中、一人で、焼き芋焼いてる焚き火番させられたこともあります。
今じゃ無いんだろうなあ。
学校の敷地の端っこの方に、大きな穴があって、枯葉とかそういったものを溜める場所があったんですね。
で、冬になると、燃やすんです。
ただ単に燃やしてもつまらないからと、各自家からさつまいもをアルミホイルで包んだものを持参させられ(じゃがいもの子もいた気がする)その中にぶっ込んで、焼き芋作るんです。
で、体育見学の私はひとり、火の番です。
「そこにいた方が暖かいでしょう。」
一瞬、担任の優しさを見た気がしましたが、小学生に一人でこんな大規模な焚き火番させるって、ありえないでしょ〜。
生真面目な私は、ボケーっと見つめることはなく、無意味に周囲をウロウロ歩いて過ごしました。
で、詳細はさすがに覚えていないのですが、体育の授業の後、火を消して(...消したのかなあ?)アルミホイルに包まれた芋を発掘し、給食の時に食べたんだっけなあ。
給食と体育が大嫌いだったので、速攻忘れました。

そんなんで、運動できない、給食食べきれず居残り、転校で鍛えられて口が悪い、気が強い割には病弱。という私を、なんでY君が好きになるの?と、不思議でした。
本人からは聞かずじまいでしたが。

Y君は、男の子からも人気者でした。
勉強はたぶん当時の私よりできて(私は幼少時は才女だったんです!見る影も無くなりましたよ!!)、運動神経抜群で。
たしか児童会役員に立候補して、なった気がします。
漠然とした記憶で自信がありません。

けど、彼がクラスの中で率先して何かを言いだしたりした印象はありません。
もしかしたらあれはY君だったんじゃないかなあ。と思ってることは、二つ。

蚊に刺されると異常に腫れ上がる体質の私。
腕かどこかを刺されて「わー。」と痒がり。
細い腕を半周くらいする腫れ方が私の通常営業で、みんながわーわー言うなかでひとり
「キンカン塗れば治るよ!」と言ったのが、たぶん、Y君。
当時私の家ではキンカンではなくムヒだったので、CMでは知ってたけど、キンカン?誰が言った?え、あなた?
と、たしか、Y君をきっかけにキンカンの存在を知った気がします。
その場にはキンカンもムヒもなかったので耐えるのみでしたが。

あと、詳細を全く覚えていないんだけど、何だったんだろうあれ。文化祭?そんなのあったか??クラスでお化け屋敷を作ろうということになり、何をどうやって作ったのか全く覚えてないんだけど「こんにゃくが落ちてきたら気持ち悪いよ!!」と言ったのがY君だった気がするのです。
しらたきだったかも。
なんなんだそれは。
と思いながら、なんか、できて。
こんにゃくだかしらたきだかが本当に、落ちてきたんだか触らないといけないイベントだったのか全く覚えてないけど「正体を認識していないブニブニしたものを触るとちょー気持ち悪い!」と知ったのは、Y君きっかけだった気がするのです。

さすがにここまでくるとY君も覚えていないでしょうね...

なんだか、関わりたそうなんだけどシャイみたいで、どう接したらいいのかわからないなあ。
と思ったのが、私が出戻ってきてから1年くらいの印象でした。

まだ続けちゃいます。


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2017/02/09

おもいでばなし。つづき。

前にも書いてると思いますが。
思い出を書きます。

私は小学校を2年ほど中抜け転校していたので、戻ってきたときは
「あ!namiちゃんだ!!おかえり!何組?」
「まだわかんない〜。」
という感じで、面白かったです。
「○○君のこと覚えてる?」
と、何人かに聞かれました。
小柄で色白でそばかすで、素直で優しい子でした。
私が転校する前に、たしか彼も転校してきて、結構仲良く過ごしていました。
昭和時代の小学生の男女って、変に意識しちゃって普通に喋らなかったりしたものですが、○○君はとても素直で、慕ってくれているのがわかりました。
私は子供の頃は姉御肌というか、面倒見がいいほうだったらしく、片思いしてくれてた子はたくさんいたらしいのですが、鈍感な私がそんなことに気づくわけがなく。
昭和の小学生男子はムッツリというか天邪鬼ですので、私には尚更わかりません。

出戻ってきた私に
「〇〇君覚えてる?」
「転校しちゃったんだよ。」
と数人が別のタイミングで言いました。
転校した子は彼だけじゃないのですが、これだけ私に伝えてくるということは。
「そうなのか...。」としか言えませんでした。
淋しかったです。またあのそばかす顔と楽しく過ごせるかなあ、と少なからず思っていたので。

5年生の3学期の途中というすさまじく中途半端な時期に戻ってきて、実質1ヶ月半くらいしかそのクラスにいないわけですから、先生方が扱いづらそうにしてたことをよく覚えています。
6年生には、クラスの面子は同じまま、担任が変わりました。
転校前から《あの先生が担任になりませんように...》と思っていたそいつでした。
私は根アカなんだかポジティブシンキングなんだかバカなんだか《けど、あの先生も、いい人に変わってるかもしれないよね》と、最初は思いました。
思った私がバカでした。
学校燃やしてやりたい。とか、明日になったら担任死んでますように〜。とか相当本気で思ってました。
6年生の時の、今すぐ死んでほしかった担任の所業の話はすさまじく長くなるのでおいといて。

そのとき、Y君の存在を認識しました。
ああ、そういえば近所の。
習い事か何かで、団地の児童会には入ってないけど。たぶん。
その頃のY君は、背の順で前から数えて何人目。って感じの小柄で、ぼっちゃん刈りの、ちょこまかした子でした。
私は小学生の頃は背が高くて後ろから4番目くらいよりノッポだったので、かなりの身長差がありました。
まあ、それから10センチ以下しか伸びなかったんですけどね、わたし。。。

転校前から私を知ってる子も、戻ってきて初めて同じクラスになった子も、なにかしら話しかけてくれたのですが、Y君は遠巻きにそれを見てるばかりでした。
だから、「Y君はnamiちゃんのことが好きなんだよ。」と何人かに言われても「...は?」って感じでした。

長くなりそうなので、次にします。

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