2015/01/26

メンタル#3…小学生時のこと

メンタル#1…幼少期のこと
メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと
の続きです。


小学生の時の私は、体育と音楽以外はオールAあるいはオール5をとれてました。ほぼ。
音楽は、ピアノ弾けないし楽譜読めないのでしょうがないです。頑張ってる。ってことでBか3でした。
体育も、徒競走は万年ビリだしなんだかんだ。リレーの選手なんて私とは完全無縁でした!
でも、体重が軽かったせいか逆上がりは普通にできてたし(空中逆上がりは無理でした)跳び箱も6年生のとき5段は飛べてたし(当時は身長が平均以上あったので6段は行きたかったけど身体能力が無理でした。)マラソンは割と好タイムだったのと、真面目さだけで3かBを死守してました。
あと嫌いだったのは給食。
好き嫌いはほとんどないんだけど、食べきれないんです。
アラフォーの最近になって気付いたのは、家で食べさせられすぎだったんです。
夕食はステーキかお刺身かハンバーグか豚カツがそのあたりが必ずあるし(豚カツは3枚から4枚食べさせられます)朝食はその残りをがっつりです。
そうすると、お昼におなか空かないんです。
で、給食食べきれなくてお昼休み無し。お掃除の時間も食べて、5時間目になってやっと開放される。

音楽の時間は、転校前は、楽譜読めなくてもメロディー覚えちゃえば歌えるし、とりあえず右手でリコーダー吹けてるみたいだし、自信は全く無いんだけどまあついていけてるのかなって思ってました。成績はBだからまあ、音楽教室とか行ってないんだからCじゃなくてよかったよね。くらいな。

ただ、転校先の小学校とは音楽の進み具合が全然違って、転校先ではみんな当たり前に両手でリコーダー吹いてました。
転校前は右手だけで「たこたこあがれ」とかを延々とやってたのですが、転校先はみんな両手で普通に「エーデルワイス」を吹いてるんです。
デタラメにリコーダー吹いてる私を見かねて放課後に音楽室で音楽の先生に特別指導をされました。
分からないなら吹かなきゃいいのに…と、クラス中大騒ぎさせました…あはははは〜。。。
特別指導で習ってみたら、なんだ、簡単じゃん。。
なんでこれをさっさと進めなかったんだろうか、転校前の学校は…。
とりあえず左手の音階とエーデルワイスを覚えたら特別指導から解放されました。
一部の子には再転校間際まで、私がデタラメリコーダー吹いてたことをど〜のこ〜の言われてましたが、そういえば、私をせっせといじめてた女の子たちはそこら辺全く触れてこなかったなあ…私のデタラメリコーダーに気付いてなかったのかなあ…

…今思い出した。転校前にピアニカでやってたことは転校後の学校はハーモニカでやってたんです。鍵盤ハーモニカじゃなくてハーモニカ。ピアニカ何それ状態な転校先の学校の子たち。
あれはたしか、転校直後に知り、そもそもハーモニカを持ってないので入手し(させられ?覚えてない。)音程の配置が鍵盤ハーモニカと同じだと分かって、吹いたり吸ったりする法則も速攻で覚え、ヨシ来い!!と思ったらもうハーモニカを吹く必要はなくなりました…。
そのかわりというか、アコーディオンを弾く機会を得ることができました。
『音楽わかんないのにこんなの弾けって言われたって!!
しかも和音もやるの!?
そんなのやったことないよ!!』
と泣きそうでしたが、
『ピアニカを縦向きにして、左手はジャバラを動かしてれば音が出る。そんだけ。指使いはとりあえず隣の人のを真似しましょう。』
と分かったら、とりあえず授業や音楽祭をこなす程度にはついていけました。。たぶん。
左手にボタンがあるのだったら絶対無理でした。。小学生じゃやらないのかな。

何をどういじめられてたかの話は、ここでは端折ります。


ここまでの話では、転校経験者の方からすれば特に、『よくあることじゃね?』と思われると思います。
うちがおかしかったのは、私は3年生の2学期の途中に関西に行き、5年生の3学期の途中で戻ってきました。
学年が変わるとき、せめて学期が変わるときとか、きりのいいところで移動させてくれよ!!
そもそも関西と関東で教育指針が全然違うし、教科書も全く違うし、なにより方言ですん〜〜〜ごいいじめられ、そんで、関東の小学校では体操服はブルマで、関西では男女共通の紺色短パンでした。

私は、すぐ関東に戻るからかなんか分かりませんが、結構長いこと関西の小学校の体操服を買ってもらえませんでした。
すぐといっても2年の予定ですから、小学生には永遠のような時間です。

うち、財閥系サラリーマンだったから、体操服買うお金くらいあったはずです。
今だから強く言います。
小学生の体操服買うお金がないほどの金銭苦労は当時全くなかったはずの家庭です!!

毎日胃に詰め込まれてるステーキ半切れのお金で体操服くらい買えます。
そんでも、「無駄だ!」つって、結構長いこと買ってもらえませんでした。
今までブルマなんて履いたことのない子たちのなかに突如私が現る。

「中学生になったらブルマだよ、信じられない、あんなのただのパンツじゃん、いやだいやだ!!」

と言ってる子たちのなかにいきなり登場する緑ブルマの転校生。わたし。

浮いた浮いた。

今思えば、子供だって人間関係に苦労するとか、そういうことを全く慮る心のない親たちでした。
少しの違いのせいで、ものすごい攻撃を受ける。
そんなこと、転勤族の親たちのほうがよっぽど気付いてたはずだと思うのですが、子供にはそんなの関係ねえと思ってたらしい。


その当時からうちの母は鬱っぽい状態で、朝はなかなか起きてきませんでした。
あ、あと、小学生のとき私たちの朝ごはんはパンが多かったのですが、飲み物はインスタントコーヒーでした。
おやつタイムもインスタントコーヒー、ときどき、サイフォンで入れたコーヒーでした。
嫌いじゃなかったから飲んでましたが、あれで私は最初に胃とメンタルを悪くしたんじゃないかなと思います。
お友達が「コーヒーは子供だから飲まない。紅茶とかミロとか飲んでる。」って言うのを聞いて、子供ってコーヒー飲まないの??なんで??カフェイン??なにそれ、刺激が強いの??それってよくないの??ちょ〜飲んでるんだけど…
と、呆然としたことを覚えています。

小学校に着ていく服を気にしてもらった記憶はありません。
服を買いに行っても、お嬢様が着るようなドレスばっかり見て、学校でドロンコになれるような服は絶対買ってくれないんです。
困って困って、親戚から送ってもらったお下がりの服のなかのワンピース、今日はこれでいいや!
と思って着てみても、合わせられるインナーがなくて、脇から上半身丸見え。
ブラウスを合わせてみたらお嬢さん過ぎて完全に浮く。
どうしたらいいのか分からなくて遅刻しそうになったこと何回かもう覚えてません。
もちろん、寝る前に<明日着る服を揃えて枕元に置いてから寝る>なんて躾は受けてません。
のちのち、知りました。
前の日の夜に、家族が、明日着る服について指導してるんだ、よそんちは!!
朝パニクって騒いでも他人事のように放置されるか酷く怒られるかで、指導なんかしてもらったことないよ!!
関西の学校は困れば体操服で行けばよかったので、そういうときは早々に開き直って体操服で行くことにしました。
冬はどうしたのか覚えてない…

靴も、運動靴を買ってもらえないのでカジュアルドレスシューズみたいなので体育に参加してたら先生に怒られました。たしか違うクラスの先生でした。運動会の練習の時だか何だかで。
『なんでこんな靴履いてくんの、体育なのに。』
って。
だ〜よ〜ね〜。
だ〜よ〜ね〜〜。
先生、それ、うちのおかーさんに言ってください。
運動靴買ってくれないんです。

って、もしかしたら言ったかもしれません。
よく覚えてない。。
靴のことは本当に困ってたので殴られるの覚悟で言い続けてたのですが、殴られたのかもしれないんだけどもう覚えてない。。
ある時突然、買い物先で「選びなさい」とうんざりした顔で言われました。
うひょ〜!!
本当は
『みんなが履いてるあれとかあれとかがいいんだけど、なんか値札の数字が大きいよ。
あんまり数字が大きいと、のちのち、あんな高価な靴を買ってあげたのにお前と言うやつは!!と、よくわからない理由で殴られる!』
という確信があったので、なにげなくノーブランドで数字が少ないのを選んで「これがいいです。」と言ってました。
大人になって思うと、大事大事に育てられた子が履いてた運動靴と、私が漸く買ってもらった運動靴。たぶん当時の価格としての違いは3,000円くらいだと思います。
これが高いか安いか。
安くていいんですけども、運動靴買ってもらうのに、お金がないという理由ならともかく『お前なんかに余計な金使いたくネエのに何ゴチャゴチャ言ってんだ!!』って態度を乗り越えて訴え続けないと運動靴一つ買ってもらえない。
でもお友達は、何の軋轢もなくすんなりと、私が履いてる運動靴が2つか3つ買えそうなのを買ってもらえるんだな〜。安くていいからバトル無しで買ってもらいたいのにな〜。
と、思ってました。


そんなこんなで。
私は妹と4つ離れていて、私が関西の小学生の時は妹は幼稚園生でした。
母が朝起きないので、パンを焼いてコーヒー入れて(今思うと幼稚園生にコーヒーはないよなあ。。お砂糖とミルク沢山いれたけど。)食べさせても、妹は食が細くてなかなか食べないし、私は妹を幼稚園に送ってからそのまま学校に行ってもまあ間に合うので、今日はお姉ちゃんと行こうね。と言っても「おかあさんと幼稚園行くの〜〜!!ギャ〜」
と、びくともしないので、起きない母に「お母さんとじゃないと幼稚園行かないって聞かないから、私もうどうにもできないからね?」と言うと「今日は休ませる〜。」

そんなんばっか。

で、鬱っぽい母は私が小学校から帰ってきても寝てる。
妹のお迎えに行かなくちゃ。(その日はどうやってか忘れたけど幼稚園に行ってた。)
「お母さん動けないからあなた行ってきて。」
まあ、そうはっきり言われれば行きますが。

で、行ったら。
お迎え遅めだったみたいで、クラスだったかお遊戯室だっかたでほぼひとりで妹が遊んでた。
…っていうか、普通お迎えに小学生のお姉さんは来ないので、私自身の存在が完全に浮いてました。。

「遅くなってゴメンネ〜。お母さん具合悪いからお姉ちゃんが来たよ。さあ、帰りましょう。」

と言うと

「いやだ〜〜〜おかあさんじゃなきゃいやだあああああ〜〜〜〜!」

と、号泣。
柱かなにかにしがみついて動かない。

こまったな。
たぶん先生の方が困ったと思いますが…
私も小学生ですのでこれ以上なだめる手段は持ち合わせていないですし、母が絶対に動けない状態ではないことも分かってますので、先生に

「母、たぶん来られますので、呼んできます。ただでさえ遅いのに更に遅くなっちゃいますけどすみません…。」

と謝りました。

「こちらは大丈夫よ〜。お母さん無理しないようにね〜。」
とかなんとか言ってくれた気がします。

帰宅して母に状況を説明すると、何も言わずむっくり起きて迎えにいきました。

動けるんじゃん。

もちろん、私に対する労いの言葉も、妹に対する、不安な思いをさせたことの詫びの一つもありませんでした。

続きます。

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2015/01/24

メンタル#2…幼少期〜小学生時のこと

メンタル#1…幼少期のことの続きです。


知能テスト1位で入学した(らしい)第一期1年生。
普通の公立小学校です。
あんまりいろいろ覚えてないです。
ちょっと前まで、忘れていいことまで何でもかんでも覚えてて邪魔だったんですけど、年かしら。どんどん忘れてきました。

出身幼稚園によっては、幼稚園で既にピアニカは習っていて、持ってる子が半分くらい。
小学校に入って初めてピアニカに触れる、私が行ってた幼稚園の子が学校経由で買ったピアニカの方が鍵盤数が少ないと言うよく分からないことに。
保育園からの子はうちの学校の場合結構少なかったのですが、たぶん楽器屋さんで買ったっぽいのを持ってきてました。

小学1年生のとき。
たぶん知能テストの結果を見て教師が児童の扱いを振り分けるんでしょうね。
順序は忘れたけど、班長さんとかなんとかそういうのをいつのまにかいろいろやらされてました。
あと、何だったのか未だに分からないんだけど、授業中に、他のクラスに行って、やはり授業中のところへお届けものをする。
って仕事がしょっちゅう与えられていました。
授業から多少抜けても勉強に追いつけないことはないとでも思われてたんでしょうか〜。

んでも私も人並みに幼かったので!
1年生の初期の頃。
「みんな〜!ランドセル背負いますよ!さあ並んで!!」
と言われ、何の訓練だろうか?
と、からっぽのランドセルをとりあえず背負って列に並んだら、集団下校でした…
そんなこととはつゆ知らず、ランドセル以外なんにも持って帰らないまま帰宅したわたし…

「おかーさーん…おうちに帰るんだとは思わず、ランドセル背負いなさいって言われたから背負って列についてきたら、お帰りだった…全部学校に置いてきた…」

とても覚えてるエピソードです。
結局どうしたのか覚えてないです。
自分で取りに行った記憶はないし、学校は近くだけど、その頃確かまだ給食がなくて(新設校で給食室の設置が間にあってなかったらしい)1年生だからまだお昼前に帰宅してた気がします。だからたぶん、取りに行く必要のあるものはなかったんだと思います。


そんなんで、よく覚えてないですが、年がら年中班長さんは当たり前。
気がついたら年がら年中学級委員もやるようになってました。

親としては、あたりまえの状態だったらしいです。
両親は高校の先輩後輩の関係なのですが(結婚したのはかなり後のこと。結婚までずっとつきあってたわけではないらしく、そんなに空白期間があった理由はよく分からない。)父はなんかとにかくず〜っと主席。大学だけはたしか1科目負けて次席で卒業だったと聞いた気がします。
母はずっとテニスをやっていて、試合試合試合。
同時にずっと学級委員長だったそうです。
だから私が知能テスト1位なのも学級委員常連になちゃうのもあたりまえだったっぽいし、逆に私も、学級委員くらいできないと家で人格否定されちゃうので、当然だと思ってました。


教育ママパパかと思われると思いますが、親はド田舎生まれド田舎育ちですので、「勉強なんか自分ひとりでやるもんだ」ってかんじで、私はなんにも習ってませんでした。
文化芸術の教養にうちの親は1ミリも興味がないのでそういうお稽古事は一切させてもらえませんでした。
唯一、お習字とそろばんは、それぞれ2年くらいさせてもらいました。
お習字は、団地内の同級生のお母さんが自宅でお習字教室をやってたので、なんとなくの流れで。なかなか上達しませんでした。
そろばんは、関西に転校してたときみんなが習っていて、そのカルチャースクールのある建物に行けば入学案内とか申し込み窓口とかがあるのですんなり手続きしてもらいました。たぶん公営の、お稽古事に特化した施設だったんだと思います。
隣でやってるバレエ教室に行きたかった…
でも2年でまたもとの学校に転校するって分かってました。
戻った先には、近くにそろばん教室が無くて、続けられませんでした。
暗算が超苦手で、暗算のせいで4級を3回くらい落ちました。それっきりです。

音楽関係を習いたかったのですが、「うちはお父さんもお父さんも音痴だから無理」。
バレエに興味を持っても、私は猛烈に体が硬いので「あんたには無理」。
…習ってみたら案外できるかもしれないし、レッスン受ければ体柔らかくなるかもしれないのに〜!!
たぶんレッスンに連れて行ったり面倒見るのがめんどくさかったんだと思います。
ちなみに私たち姉妹は学校に行ってる間に突然の豪雨に見舞われても、一度も傘を持ってきてもらったことはありません。
お友達たちが親に持ってきてもらった傘で帰るなか、まだ低学年で体も小さい妹を昇降口で探して、「雨雨降れ降れかあさんは〜 蛇の目でお迎え来てくれない〜♪ぴちぴっちじゃっぶじゃっぶずぶ濡れだっ!うははは〜!」と上着を妹の頭から被らせながら帰りました。
帰宅すると大抵、母は昼寝しています。んで、起きません。

また、先の話しですが、塾や高校通学で駅方面から帰ってくる時にも突然の雨だと、多くのおうちでは車でお迎えにきてもらったり、車じゃなくても傘くらい持ってきてくれるそうですが、うちの場合、ダメ元で電話で頼んでも
「眠いし雨だし寒いしめんどくさいから濡れて帰ってきなさい。」
この返事のみです!
他所のおうちでは夜道が危ないからってお迎えにきてくれるそうですが、そんな理由で迎えにきてもらったことは一度もありません〜。

とにかく
「子供のために送り迎えをする」「子供の教育・成長のために情報収集をする」「子供の気持ちを考える」ということが全く無い家でした。
このため、後年、妹は
「他人の気持ちを思いやるとか、気を遣うってことがなんなのか全然分からない。思いやりをもって優しくしてもらう、接してあげるってどういうこと?」
と、悩んでいました。

冗長になってきちゃったので一旦ここまで。

続きます。

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2015/01/22

メンタル#1…幼少期のこと

こんばんは。

検索で来てくださる方は、シムズ フリープレイのキーワードの方がほとんどなのですが
(- -;;
前にやってたブログでもよくアクセスがあった内容…神経症、解離性障害のあたりについて、気が向いた時や暇な時にちょこちょこ書いていこうかと思っています。


幼少期のわたし。
女の子にはありがちだそうですが、1歳で普通に会話をしていたそうです。
大人たちが赤ちゃん言葉を使って話しかけると、正しい言葉遣いに訂正させていたそうです。

わたしの両親というのは、九州出身です。
父はいわゆる団塊の世代で、旧帝大を出て財閥系企業にストレートで入った、たぶんエリートサラリーマンです。
転勤族でいろいろ転々としました。

幼稚園の時の一時期、都内にいました。
社宅で、同年代の子が沢山いるなかでも私はだいぶ賢かったそうで、そのとき住んでたとこの近くにあった某国立大学付属の学校に行けるだろう、と大人のなかで話題にされてたのは覚えてます。
なんかとにかく、賢い、この子は賢いと言われまくってたのは覚えてます。
でも特別な教育は何にも受けていません。
気がついたら家にエレクトーンがありました。
でも私は習ってませんでした。
誰も弾かないのになんであるんだろう。と思いながら、エレクトーンをテーブルにして、父が作った「おはしの使い方練習マシン」でおはしの練習をしてました。

なんじゃそりゃ。ですよね。
アクリルかなんかで水車型のを作って、上から箸で持った木片を落とすと羽がまわって面白かろう。
ってだけです。
んで、お箸がたしか四角い割り箸かなんかだったので、子供の指には角が痛くてすぐ嫌になって、指でつまんで落として遊んでました。


何故誰も弾かないエレクトーンがあったのか。
うちの両親は、音楽の素養が全く無い人で、父なんか未だにサックスとフルートの違いを理解していません。

従弟の結婚披露宴のロビーで。
父「ほら、あそこで渋い外国人がフルート演奏してるよ!」
私「…サックスならいるけどどこにフルートがいる??」
父「あれだよあれ。金色で縦長の。」
私「…。お父さん、酷い恥さらしになるから今すぐ覚えてね。あれはフルートじゃなくてサックス、サキソフォンだから!!恥かきたくないなら、今すぐあの楽器名覚えられないなら絶対他所で余計なこと言わないで!!」

ってくらい無知です。母も同等です。
父「そんなこと言われたって一般人の俺たちには楽器名なんかわかんないよなあ〜。」
と、妹をダシにして開き直り。
知らないなら黙ってろ。

で、うちにはエレクトーンがあって、わざわざ買ったのに、何で誰も弾かないんだろう。
わたし習いにいきたいなあ。

と申し出ると、鬼の形相で拒否されました。
なんでも、私に全く記憶がない頃「習う?」って聞いたら、泣いて嫌がったんですって。
だから二度と習わせない。
…と、中学生になっても言われました。ついでに殴られました。
たぶん、お教室までは自力で行け的なコト言われたんだと思います。
うちの親には送り迎えという概念が全くなかったので。
3or4歳児を1人でエレクトーン教室に行かせるつもりでしたね、あのひとは。
それで、1人じゃいけないよ!って泣いたんだと思います。覚えてないけど。

何の話しに繋げよう。。
無茶苦茶ハチャメチャエピソードが多すぎて、お話しする順番に悩みます。

とりあえず、幼少期のわたしは物覚えがよく、幼稚園の年長さんの時には普通に読書ができていました。
年長で引っ越して違う幼稚園に行きました。
お教室で、絵本をみんなで音読しましょう。という時間があったのですが、私は音読の習慣がなく、サクサク黙読してました。
で、その絵本が、1ページに5行あるかないかなのを、みんながわーぎゃー読んでるんですけど、意味が分からず。
私はわざわざ音読しないといけない意味が分からず、もう黙読で3回くらい読み終わってしまい。
しょうがないからみんなの真似をして音読してみました。
みんなのペースで。

かったりい!!

んで、当時はいろんな大人に「おりこうさんね。賢いね。」と言われていて、へえ〜そうなんだぁ〜私って賢いんだぁ〜。と思ってました。
んで、「わたしは賢く正義感強い子であり、そうやって成長してゆくべきなのである。」
という自己暗示にかかってたと思います。

幼稚園の時は、喘息を発症していて、肺炎を起こして入院したりして、転園先の幼稚園はあまり登園しないまま卒園しました。


幼稚園で私たち一家が引っ越した先は新興住宅地で、団地どーん。一戸建て住宅街どーん。と建ったタイミングだったので、小学校も同時進行で作っていて、私たちは第一期1年生でした。
そのとき。今もあるのかしら。入学前に知能テストがあって。
私が入学した時は200人いるかいないかくらいだったのかな。
普通は教えちゃいけない事だそうですが、私は知能テスト1位だったそうです。

続きはまた…




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2015/01/20

閑散期

こんにちは。

仕事がなくて暇ですっ!

今は派遣OLとの掛け持ちはしてなくて本業一筋なんですけども、今の時期、この業界、暇なんです…
クリスマス、冬休みに行われるあらゆる発表会、カウントダウン、成人式。
と、1ヶ月でイベントがぎゅーぎゅーになったあとは、これですわいな(- _ -)
週末だけは何かしらあるのでチョコチョコ働きにいってます。
暇はあれどお金があるわけではないので引き蘢り…
寒いから余計に引き籠り…
仕事を選ばなければないことないんですけどね、スタジアム系とか、知らない人しかいない現場は遠慮しておりますので…
私はあまり人見知りをしないので、知ってる人がいなくても頼まれれば結構行っちゃうんですけど、知り合いの知り合いならともかく、名前と連絡先しか知らない人の知り合いは所詮他人…。。
行ってみたらあらビックリで知人がいたりもするんですけどね。。。

そんなんで、ちょっと働いて、オフになっちゃって、自炊じゃー。ってチョコチョコ作ってごはん食べて、昼間っから酒飲んで、寒いからってゴロゴロしてるわけなんですけども。
昨夜久しぶりに酷い腹痛に悩まされました…( _ _ )..........o
漢方をサボったせいかなあ…ああ、辛かった。
私は元々おなかは強い方なのに、去年のストレスから、すっかりヨワヨワになってしまいました。

お散歩に出かけたいけど寒いしなあ…
ぐうたら…

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2015/01/14

仕事と信頼

こんにちは。

今日は、昨年末に、2年ほど前に一緒に仕事してた姉さんとサシ飲み忘年会したことを書きます。


2年ちょっと前。
私は、平日は派遣OLみたいなことをしてました。
経理も人事もできない、接客もしない派遣OLって、まあ、変な仕事が多いです。
で、そのときは、とある国家規模な大プロジェクトの事務処理メンバーに私はいました。
元彼はその時の上司です。
元彼が、仕事量のキャパ越えるからアシスタントつけなさいとクライアントだかとにかく上からいわれて適当に選ばれたのが私です。
で、元彼は馬鹿男でしたが仕事はできる人でした。
私がパソコンをどれくらい使えるのかも分からないまま適当に任命したそうです。
もしパソコン全然使えなかったとしても仕事の割り振りを調整すれば問題ないと思ってたんですって。

私は、パソコンバリバリ使えますお任せアレ〜という技量はありませんが、まあ、ある程度は使えます。
その現場はセキュリティの問題で、私が触るパソコンは外部には一切つながらないので、ネットで使い方を検索しながら〜とかはできません。
提出書類があっても、紙の状態で提出して、しかるべき部署の方が必要書類に打ち直して更に上に提出するというシステムでした。

元上司…元彼が良い判断をしたのは、そうやってメールなどが使えない環境で情報共有するために連絡ノートを作ったことでした。
その日に起こった問題や、誰かからの伝言を私が書き。
新たに決まったルールや、全体周知事項のメモを元上司が書きます。
解決していったらその旨書き加えていきます。

毎朝、まずマネージャーとそのアシスタントクラスの朝礼があります。
アシスタントはもともと出なくて良かったのですが、全アシスタントが自主的に出るようになってしまいました。
(アシスタントはみな私と同じ派遣社員です。マネージャーを信用してないから自分の耳で朝礼内容を確認すると言う意味もあります…たぶん。)
元彼はフロアを統括してたので、朝礼時に「なんだっけ…」となることを、そのノートを見て後ろから「○○の件!」と伝えるのも私の役割でした。
そのあと各チームごとの朝礼があります。
マネージャーが東奔西走してたりボーッとしてたりする間にゴタゴタが起きると、アシスタントたちが私に確認しにきます。


年末にサシ飲みした姉さんも、アシスタントでした。
全体で500人くらいいるフロアで、10くらいの部署があり。そのひとつの部署のアシスタントが姉さん。仮に、Oさん。
10前後の班が各部署にあり、それぞれに班長はいますが、まあ、それぞれ、班長もメンバーも、それだけの大人数だと変な人もいます。たくさん。
社員だってろくでもないのがいますので、きちんと業務を進めなくてはと思う私たちは、マネージャーたちがいなかったり対応してくれない問題点を共有しあっていました。
内容によっては、ほんとは私にはそういう権限はないのですが、様子を見にきてくれる、別フロアの別働隊の社員さんにボヤいて対応してもらったりしてました。

そうやって、アシスタントたちは私と連携することで実質元彼とも連携がとれ、彼は問題点にはいくら忙しくても必ず行動する人でしたので少しずつでも改善されることにより元彼は信頼されていました。

私と彼がその現場を去り。
いろいろありますが、実質、「マネージャーとアシスタントが仲が良すぎる」という話が上に行き、私は追放されたようなものです。
彼は現場から降ろされ、自宅待機になっていたところを関連会社の方の仲介で別の会社に移りました。それも辞めましたが。

アシスタント仲間たちもそう思ってたと思いますが、仕事が円滑に不備なく進んでいれば問題ないと思っていたそうで、それはそれ。だったらしいです。

んで。
私の業務は元彼管轄の業務なので、元彼が引き継ぐから気にするなと言われました。
(そもそも私のポジションが廃止になると言う話もあったので。)
で、元彼も去り。

私のポジションには社員が来たそうですが。
無茶苦茶だったそうです。
「あたしは社員よ、文句があるなら辞めていただきます!!」
と、一日中ぼんやり座ってるだけのヤツに言われたんですって。

私がやってたことは全然難しいことはなく。
そのうちの一つ。
文房具等の持ち込みが完全に禁止だったので、その管理をしていたのが一つ。
すべて支給される文房具を使用しますが、当然持ち出しは禁止です。
付箋紙を私的なメモとともに持ち出すのも見つかれば厳重注意。数度となれば契約終了もあり得ました。
いったんルールを作れば、うっかり必要以上に在庫を持ってたチームは「ごめんなさいごめんなさい」と自己申告して返却してくれてました。
運用方法が変わると必要になる文具が増えたり、逆に不要な文具が出てきたり。その交通整理をしてました。
で、やたらめった余ってしまった文具をキャビネットに寝かせていたら、別のフロアでそれがたくさん必要になったので、使ってなかったらあっちにまわしてもいい〜?と、文房具とかを担当してる社員さんに相談されて「ありますあります!250くらいあります!」「100でいいの」「そう言わず持っていってくださいよ〜」「そう〜?じゃあ150もらってくね。」みたいなことをしてました。

ただそれだけのことなんですけども、私の後釜となったその新しい社員さんは、就業時間後に文房具残数抜き打ちチェックをして、一方的に大没収をして、翌朝からの業務ができずフロアじゅう大パニックになり文句を言うと逆ギレされたそうです。ぜんぜんいみがわかりません。
ほかにもいろいろ無茶苦茶で、アシスタントのメンバーはもうほとんど辞めてしまったみたいです。
元彼と、namiさんがいたときがいちばんよかった。
と、言っていたそうです。
Oさんも一昨年に辞めていました。
たぶん、Oさんは元彼と一緒に仕事がしたくて、でも連絡が取れなくなってて(元彼はメンバーからの連絡をスルーするようになっていました)私と連絡が取れればつながれるだろうと思っていたようです。

で、実情はこんななので(- -;;

「…がっかりだ…」

と、言ってました。。。
うん。。。
空いた口が塞がらなかったよ…

「それ結婚しなくて良かったよnamiさん、とんでもなく大変なことになってたよ。」

…仕事のできる彼を知る人に言われるとなお一層心強いです…
そうだよね…やめといてよかったよね…みんなに言われるけど、Oさんに言われると余計に自信がつくよ…

人の顔には裏と表がありますが、そういうことなのかなあ。
暴力じゃなかっただけマシ??

アシスタントと仲が良すぎる。というところでは信頼されなかったですが、実際の業務に於いては誰よりも信頼されてた人でした。
たぶん、仲が良すぎるって上に出したのは、班長やその班のメンバーだと思います。
立場に微妙に距離があるぶん、不満も増えるでしょう。

ほかのアシスタントたちは素直なメンバーばかりで
「オレたちあなたを信用してどこまでもついていきますから!イエーイ!!」
とか普段から言ってました。
時に、自分の正義感を示すあまり彼に喧嘩を売るような態度になるメンバーもいましたが、それは、自覚してのことでした。
「オレ、こんなこと書いたらクビになっちゃうかなあ。うーん。でもあの人にクビにされるなら本望だ。書いちゃう。」
とか言ってました。
当然彼は怒ってましたが、一応横から「怒られるの、ましてやクビになることも覚悟で書いてたよ。そんだけ困ってるんだよ。」と言いました。

もうあの現場には私たちの知る人はほとんどいないと思います。
もう、無茶苦茶らしいです。
どうしてそんなことになっちゃうんだろう…

私たちはほとんど追放された形ですが、ほかは、できるメンバーはやり甲斐や楽しさを感じなくなり他の職場に移り、または、バカ社員と大喧嘩して辞めたり、だそうで。
プライベートのグダグダさはともかく、仕事は、元彼みたいに筋の通った上司と働きたい。と話していました。

もう、思い出話。
なんだなあ。


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